ワタナベ(65歳・元会社員)
年が明け、私の元へ届く新年の挨拶は、今年もほとんどがデジタルだった。スマートフォンの画面を滑る指先が止まるのは、かつて「謹賀新年」の四文字や「迎春」の二文字が鎮座していたはずの場所。それらは今、絵文字やスタンプ、短い定型文に取って代わられている。
そんな中、一枚だけ届いたのは、書道の師範である古い友人、田中さんからの年賀状だ。微かなざらつきのある和紙に、墨で書かれた「迎春」。筆運びの最後の跳ねには、かすかな墨の滲みが残っていた。これが私にとって、ここ数年で受け取った最後の「迎春」だった。あの古風で格式高い言葉が、ついに私の生活圏から姿を消した、そう確信した瞬間だった。
若い頃、田中さんは毎年、裏面に達筆な文字をびっしり書き連ねて送ってきた。「病気療養中の母も、今年は庭を眺めて笑うことが増えました」といった近況報告は、郵便局の消印が押された薄い紙を通して、相手の息遣いさえ伝わるようだった。一枚一枚に込められた時間と心は、確かに喜びだった。
しかし時代は変わり、パソコンとプリンターが主流になると、彼の書も印刷になった。定型句は「あけましておめでとうございます」へ。手書きの温もりを失ったというより、受け取る側の私が、どこか大切なものを手放したような感覚だった。郵便受けに届く年賀状の枚数は年々減り、代わりにスマートフォンの通知音が増えていった。
デジタルメッセージの即時性は魅力的だ。しかし、そこに失われたものもある。それは、ただの形式や言葉ではない。新年に向けた心の構え、一年を厳かに始めるための儀式が、静かに削り取られていく。私が求めていたのは、効率性だけではなかったはずだ。この時代に生きる者として、この変化をどう受け止めるべきか、未だに答えは見つからない。ただ、かつての年始が持つ重厚感は、もうここにはない、と断言できる。
「形式は変わっても、新年の喜びを分かち合う気持ちに変わりはない」。そう語る知人もいる。
彼らの言葉に、私は首を縦に振れない。言葉が持つ重み、受け継がれてきた格式。それが日常の風景から、ひっそりと、しかし確実に消えていく。そのたびに、時代は僅かながら、しかし決定的に、何かの尊さを失っていく。新年の挨拶の形は変わった。だが、その背後にあった「何か」は、もう同じではない。そう、私は確信する。