ニノミヤレイ(46歳・額装職人24年)
掛け替えや修理で来る古い額には、表と裏がある。表は誰でも見ている。裏は、何十年も誰も見ていない。裏板を留めた釘を、一本ずつ起こす。板が壊れないよう、台に膝で押さえ、起こした釘の頭を布の上に並べていく。地層を剥がすのと同じ速さでしか、手は動かない。
先週開けたのは、客間に掛かっていたという山の油絵だった。額は重い木で、金箔がところどころ剥げていた。留めていたのは、いまは使わない太い和釘。それを抜くと、板と絵のあいだに新聞紙が丸めて詰めてあった。湿気取りだ——紙が膨らんで角に押し込まれている。広げると日付が出た。昭和三十九年十月。テレビの広告と、近所の呉服屋の売り出し。絵が額に入ったのは、東京で五輪のあった年だ。私はそれだけ確かめて、新聞を脇によけた。
額の隅に、薄い紙のラベルが貼ってあった。「○○堂額縁店」。市内の、もうない店だ。電話番号が三桁だった。半世紀前にこの絵を額装した同業者の名が、私の机に出てくる。留めは釘の打ち方が荒く、角で板が一ミリ浮いていた。けれど絵を留める折り返しだけは、妙に丁寧だった。急いでいたが、肝心なところは手を抜かなかった人だ。会ったこともない先人の、手の速さと、譲れない一線が、留め方に残っている。
その丁寧さの中身が、問題だった。絵を裏で支えていた台紙が酸性紙だった。当時はそれが普通だ。酸性紙は何十年もかけて自分が焼け、触れている相手も焼く。油絵のキャンバスは厚いから無事だったが、絵の縁を覆っていたマットの内側に、紙の焼けが茶色い帯になって移っていた。マット焼けという。額の中で、一枚の紙が、ゆっくり別の紙を傷めていた。先人を責めることはできない。当時の知識の上での丁寧さだ。
同じ週に、別の客が小学校の賞状を持ってきた。これも久しぶりに裏を開けた。詰め物はなく、賞状が薄いベニヤに画鋲のような留めで直接押さえられていた。紙は全体に飴色で、留めの周りだけ、錆が滲んで茶色い輪になっていた。文字は読めるが、紙の端は指で触れれば粉になりそうだった。だから触らなかった。
ここで、言える範囲と、回す範囲を分ける。台紙が酸性だから中性紙に替える、錆の留め具は替える、新しい額では紙焼けから守られる——ここまでは私の手が直せる。だが、賞状の紙そのものに入った飴色や、油絵の表面の細かなひびは別だ。マット焼けは紙を替えれば止まるが、画面のひびは画面の劣化で、私が触れば広げるだけになる。私はひびを爪で確かめず、斜めから一度光を当てて見て、手を引いた。そして修復家の連絡先を書いた紙を渡した。額装と修復は、隣り合っているが別の職分だ。境目で見栄を張ると、絵を壊す。
掛け替えが終わると、新しい裏板に、自分の店のラベルを貼る。名前と、いまの電話番号と、この絵を開けた日付。前の額装屋がそうしたように。私は日付を書き、ラベルの四隅を指で押さえ、裏板を起こして釘を打ち直した。打ち終えて、引き出しに余った中性紙を戻し、客間の油絵を毛布で包む。開けた裏板からは、埃と、古い木と、紙の焼けの匂いがしていた。それだけだ。私は窓を開けて、次の額の釘に手をかけた。