ニシゾノチカ(26歳・銭湯のペンキ絵師4年)
銭湯の壁に富士山を描く仕事をしている。色は、現場で作る。足元に並ぶのは原色の缶だけで、空の青も海の青も、缶のなかには一つも入っていない。混ぜて作る。だから私の道具で一番大事なのは、刷毛でも足場でもなく、たぶん、色を混ぜるための小さな容器のほうなのだと思う。
弟子入りして最初の年、師匠は私に何も教えてくれなかった。ただ「青を作れ」と言うだけだった。私は原色の缶から青と白を出して、それらしい青を作る。師匠は一目見て、黙って首を振る。次の朝も「青を作れ」。また違うと言われる。あの一年で作った青は、たぶん百や二百ではきかない。そのどれもが、師匠の青ではなかった。
師匠の青の配合には、レシピがない。白を何割、というような数字で覚えるものではないらしい。あるとき師匠が混ぜるのを真横で見せてもらった。缶から缶へ、刷毛の先で少しずつ移していく。計っていない。指で容器の縁を拭って、光に透かして、また少し足す。「これは体で覚えるしかない」と師匠は言った。たしかに、頭で覚えられるものではなかったのだと思う。
調色でいちばん難しいのは、塗った色と乾いた色が違うことだ。ペンキは乾くと、わずかに沈む。濡れているうちの青は深くて鮮やかで、これでいいと思って塗る。乾くとくすんで、明るくなったり、逆に重くなったりする。湿気の多い日と乾いた日でも、その差は変わる。気温でも変わる。だから私は、いま見えている色ではなく、数時間後に乾いてどうなるかを見越して混ぜる。乾き色を読む、というやつだ。
色は、明かりでも化ける。調色しているのは、外光の入る脱衣場の脇だ。昼の光のもとでちょうどよく見えた空の青が、浴室に入って電灯の下で見ると、急に黄ばんで見えることがある。銭湯の電灯は色温度が低くて、昼の光より赤い。だから完成の確認は、必ず浴室の明かりの下でする。客が見るのはそこだからだ。外で合わせた色を信じてはいけない、ということを、私は何度も失敗して覚えた。
白の話もしておきたい。白は一缶しかないのに、現場では三種類の白を使う。雪の白、波の白、雲の白。雪は青をほんの少し落として、冷たく硬くする。波は白に近いまま、灰をかすかに混ぜて影を持たせる。雲はいちばん柔らかく、温かい白にする。同じ缶から出した白が、足すものの差だけで、まったく違う白になる。白は、いちばん奥が深い色なのかもしれない。
仕事が終わると、調色した色がいくらか容器に残る。私はそれに蓋をして、次の現場まで取っておくことがある。でも、次に開けたときに同じ色がそのまま使えることは、まずない。乾きかけて沈んでいるし、その日の空と海はまた違うからだ。結局はまた作り直す。残ったペンキの缶が増えていくばかりで、同じ青に二度出会うことはない。
調色した色には、名前がない。空の青、と言っても、それはあの日のあの空の青であって、明日の空の青ではない。記録しようがないし、記録しても意味がない。あの日の青は、あの日にしか作れないのだ。混ぜた手の記憶のなかにだけ、それは一瞬あって、塗ってしまえば消える。二度と同じ色は作れない。だからこそ、毎朝の調色は、その日かぎりの一枚なのだと、いまの私は思う。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。