ヌクイサヤカ(38歳・温泉の湯守18年)
山に湧く湯を、いくつかの宿まで届ける仕事をしている。源泉の温度と湧出量を測り、引湯管を見回り、決まった量を各宿に割り振る。湯守とは、そういう仕事だ。そして十年に一度、湯そのものが、人の検査を受ける年が来る。
温泉法という法律があって、温泉には十年ごとに成分分析をやり直す義務がある。脱衣所に貼ってある「温泉分析書」の数字は、永遠の真実ではない。十年経てば期限が切れ、もう一度、湯の身体検査をしなければならない。地面から湧くものに、人の決めた十年という区切りがあるのは、考えてみれば不思議なことだ。
今年がその年だった。分析機関の人が、決められた瓶を持って源泉までやってくる。採水は、湯守の私が立ち会う。源泉のタンクの、いちばん新しい湯が出るところ。そこから、向こうの指示するとおりに採る。瓶は何種類かあって、口の広いもの、細いもの、薬の入った褐色のもの。湯はどれも同じ湯なのに、調べる成分ごとに、別の瓶に分けて採るのだという。
大地からの手紙を、私たちは瓶に詰めているのだと思った。山がどれだけの歳月をかけて溶かし込んだものか、人にはわからない。それを十年に一度、小さなガラスの中に閉じ込めて、里へ運んでいく。湯は瓶の中で、もう湯気を立てていない。源泉では九十二度だったものが、運ぶころには、ただの透明な水のように見えた。
結果が戻るまで、ひと月ほどかかる。気になっていたのは、泉質の名前が変わるかもしれない、ということだった。うちの湯は前回「ナトリウム-塩化物泉」と判定された。だが成分の濃度は、地下で少しずつ動いている。境目の数字をまたいでしまえば、呼び名が変わることもあるらしい。十年前と同じ湯に見えて、名前だけが別のものになる——そういうこともあるのかもしれない。
分析書が届くと、脱衣所の額縁を開ける。古い分析書を抜き、新しいものに差し替える。額のガラスには十年分の湯気の曇りが薄くこびりついていて、布で拭くと、内側にも外側にも水滴の跡がついていた。前の分析書を抜くとき、紙の裏に、前任の——父の字で日付が鉛筆書きしてあった。十年前、父も同じように、この額を開けたのだ。
新旧の二枚を並べて、数字を見比べた。ナトリウムの値が、ほんのわずか増えている。カルシウムは、ほぼ同じ。泉質の名前は、今回も変わらなかった。地下で何が起きているのか、私にはわからない。ただ、十年分の毎日の帳面——朝夕に測ってきた温度と湧出量の数字が、この一枚の分析書の、たった数行の裏側にあるのだということを、しみじみと感じた。
宿の暖簾には「美肌の湯」と染め抜いてある。湯あたりがやわらかいのは本当だ。けれど分析書には、美肌とも、効くとも書いていない。あるのは成分名と、ミリグラムの数字と、適応症の欄の慎重な言い回しだけだ。観光の言葉と、分析書の数字とのあいだには、距離がある。私はその距離を、埋めようとは思わない。湯守は、数字の側に立っていればいい。
こうして十年に一度、湯は検査を受け、名前を確かめられ、額の中身が入れ替わる。毎日の記録の積み重ねが、一枚の分析書の裏にあるのだ。私は新しい分析書をかけ直し、また明日から、枡の秒数を数える日々に戻っていく。十年後、この額をまた開けるのは、私だろうか。それとも、別の誰かだろうか。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。