宿に着く、湯
配湯先の仲居と、湯の苦情と感謝の窓口

ヌクイサヤカ(38歳・温泉の湯守18年)

山の源泉から、いくつかの宿まで湯を届けている。源泉の温度と湧出量を測り、引湯管を見回り、割り振った量を宿に流す。私の仕事は宿の玄関までで、その先、湯が客にどう浴びられるかは知らない。けれど、湯の評判だけは、一本の電話で私のところまで降りてくる。おもてなしの心が湯を生かすのだと、宿の主はよく言う。

朝の電話の主は、たいてい同じ人だ。ツゲノリコさん。その宿の仲居を三十八年やっている。「今朝はぬるいよ」。受話器の向こうの声は、私が枡の秒数を数えているのと同じ時刻に鳴る。文句ではなく、報告だ。三十八年、客より先に湯に触れてきた人の声には、湯温計のような目盛りがある。

ツゲさんの「ぬるい」には精度がある。「ぬるい」と「少しぬるい」と「上がり際にぬるい」は、別の言葉だ。客は「ぬるい」としか言わない。それを聞き分けて、湯口の出方の話に翻訳してくれるのがツゲさんで、私は彼女の言葉を逆にたどって、源泉のどの管が細っているかを当てる。客の声と私の帳面のあいだに、一人の仲居が立っている。たぶん、それが宿というものなのだと思う。

一度、内湯の見回りに同行させてもらった。配湯の最後の出口——浴場の湯口を、自分の目で見たかった。ツゲさんは閉湯の時刻に私を通し、湯口に手をかざして「ここが私の終点で、あなたの終点」と言った。私が一里の管で運んだ湯が、檜の樋から落ちている。源泉の九十二度が、ここでは四十二度になって、湯気を立てていた。同じ湯の、両端に私たちは立っていた。

客の感想は、めったに私まで届かない。湯守は暖簾の外の人間だ。けれどツゲさんは、ときどき又聞きを運んでくれる。「ゆうべのお客が、いい湯だったって」。誰が言ったかも、どんな顔だったかも、私は知らない。伝聞の、輪郭のない感想だ。それでも、毎分百二十リットルの数字の列のなかで、その一言だけは数字ではない手ざわりがあった。

礼に、源泉の枡を見せた。ツゲさんは三十八年、湯を客に注いできたのに、その湯がどこから出てくるのかを見たことがなかった。山道を一里、二十リットルの枡まで案内した。湧き口から落ちる湯を枡で受け、満ちるまでの秒数を数えてみせると、ツゲさんは何も言わず、ただ枡の縁に手を置いていた。三十八年注いできた湯の、いちばん最初の一滴を、初めて見る人の手だった。

帰り道で、互いの「気づく」の話になった。ツゲさんは、敷いた布団の畳に髪の毛が一本落ちているのに気づくという。私は、毎分の湧出量が一リットル落ちたのに気づく。畳の一本と、毎分の一リットル。どちらも、ほとんどの人には見えない差だ。細部で仕事をする者どうしが、別々の現場で同じ目盛りを持っていた、ということなのかもしれない。

暖簾の向こうにツゲさんがいて、こちらに私がいる。届けるのが私で、注ぐのが彼女だ。あいだを流れているのは、同じ一本の湯だった。私たちは、同じ湯の両端だったのだ。今日も朝の電話が鳴る。「今朝はちょうどいいよ」。その一言を聞くために、私は休まず枡の秒数を数えている。湯は、人を介して、ようやく湯になる。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

辛口レビュー →
第二稿(改稿版)→
← シリーズ目次に戻る

このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。