フジワラレン(研究助手)
区役所の市民課で、入口の発券機が「ピッ」と鳴って、薄い感熱紙が出てきた。「62」。インクではなく熱で印字された数字は、握っているうちに手のひらの汗で角が少し滲む。壁の上方に電光表示。「ただいま 48番までお呼びしております」。私と表示のあいだに、十四人ぶんの空白があった。
呼び出しは録音の女性の声だった。「48番でお待ちのお客様、3番窓口へお越しください」。お待ちの、お客様、お越しください。三つとも、主語が私ではない。私が待っていることも、私が客であることも、私が行くことも、すべて尊敬語の側から述べられて、文の中心に「あなた」は出てこない。命令は「来い」のはずなのに、敬語の層を何枚も通って「お越しください」になって届く。
制度の言葉はこうなりがちだ、と分析するのは簡単で、私はその分析を職業にしている。でも椅子に座って自分の番号を見ているあいだ、私はただの62番だった。職員も私の名前を知らない。私も職員の名前を知らない。番号と窓口番号だけが向き合う。名前を消すことで手続きは速くなる。誰でもない人を、誰でもない人が、順番どおりにさばく。その無名のなめらかさを、待っている私はむしろ少し楽だと感じていた。
「恐れ入りますが、番号順にお待ちください」。壁の貼り紙にもそう書いてある。恐れ入るのは誰か。書いた職員ではない。読む私が、恐れ入った体で待つことになっている。誰も命令していないのに、文の中の空席に自分を座らせて、勝手に従う。命令されたら反発したかもしれない。されないから、しない。
「62番でお待ちのお客様」。自分の数字が読まれた瞬間、私は「はい」と声に出して立っていた。返事をする相手は録音で、私の「はい」は誰にも届かない。それでも口が動いた。呼ばれたら返事をする、という体が先に反応した。主語のない声に、主語のある返事をしてしまう。その一瞬だけ、私は自分が制度の文の空席にすっぽり入ったのを感じた。
3番窓口で住民票を受け取り、「ありがとうございました」と言われて出た。誰に礼を言われたのか、最後まで曖昧だった。区役所を出て、まだ「62」の紙を握っていることに気づいた。もう用済みの番号を、なぜか捨てられずにポケットに入れた。あの数十分、私はたしかに62番という名前で呼ばれて、それに従うのは、思っていたより嫌ではなかった。それが少し、こわい。