オチアイレオ(28歳・水道の漏水調査員6年)
夜の仕事には、もう一つの仕事が続いている。耳で漏れの在り処を当てたら、その上に印をつける。スプレー缶を逆さに振って、舗装の上に色を吹きつける。翌日以降、掘削の班がそこに来て、私の書いた色だけを頼りに地面を切る。私はもうその現場にはいない。だから印は、会ったことのない誰かへ宛てた、無言の手紙のようなものなのかもしれない。夜の静寂のなかで、私はひとり、その手紙を書いている。
色には決まりがある。水道は青系、ガスは緑、電気や通信は赤や黄。地面の下には、いろいろな会社の管や線が、層になって走っている。だから色を混ぜてはいけない。私が水道の漏れを青で囲んだとなりに、ガスの会社が緑の線を引いていることがある。電気の赤が、横切っていることもある。誰も読まないだけで、道路の上は、地下からの伝言で埋まっている。普段、人はそれをただの汚れた染みだと思って、踏んで通り過ぎていく。
印は色だけではない。矢印で、漏れの位置の方向を指す。数字で、舗装の表面から管までの深さを書く。「N1.2」と書けば、深さ一・二メートルに本管がある、という意味だ。バツ印は掘る場所、丸は埋設物の角。掘削班とは口で打ち合わせをしないことのほうが多い。私が夜に書いた記号を、彼らが朝に読む。引き継ぎ書を一枚そえることもあるが、本当の引き継ぎは、路面に吹きつけた色のほうだ。言葉より、色のほうが正確に届く。
古いマーキングが残っている道路がある。何年も前に誰かが書いた青や赤が、車に踏まれ、雨に流され、輪郭だけになって舗装に焼きついている。それを読むのは、消えかけた手紙を読むのに似ている。矢印の向きは辛うじて分かるが、数字はもう判読できない。あれは何の工事だったのか。当てた人間も、掘った人間も、もうここにはいない。色だけが、誰にも読まれないまま、道路の上に残されている。少し切ない気持ちになる。
間違った印は、事故を呼ぶ。私が水道の本管の位置を一メートルずれて書いたとする。掘削の重機が、私の青を信じて土を掘る。すると本管ではなく、すぐ脇を走っていたガスの管に、刃が当たる。私はその現場を見たことはないが、話には聞く。色を一つ間違えるだけで、地面の下の別の誰かの管を傷つけることになる。だから私は、青を吹きつける前に、もう一度だけ棒を当て直す。耳で確かめてから、はじめて指がノズルにかかる。
舗装したばかりの、まだ黒々とした新しい道路に、最初の印を入れる夜がある。誰の色もまだ無い、まっさらな路面だ。スプレーの最初のひと吹きが、缶の中で液が冷えて、霧が少しだまになって出る。その青が、ひんやりした新しいアスファルトに乗る瞬間の手応えは、何度やっても妙に緊張する。ここから先、この道路は色を覚えていく。最初に書くのが自分だというのは、少しだけ誇らしいような気もする。
自分の書いた印の上で、翌週、掘削班が掘っている現場を通りかかることがある。重機が私の青の真上で土を割っていて、その底から濡れた管が出ている。私はそこで足を止め、何も言わずに少しだけ見る。当たっていた、という答え合わせを、誰とも交わさずに済ませる。班の人は、その青を書いたのが私だとは知らない。私も名乗らない。ただ、地面の下の水の音と、舗装の上の青と、いま掘られている濡れた土が、一本の線でつながっているのを、私だけが知っている。
マーキングのスプレーは、雨でも消えない。何日も降り続いても、車に何百回踏まれても、色は路面にしがみついている。それなのに、工事が終わって舗装をやり直すと、私の青は、アスファルトごと一瞬で消える。新しい黒い路面が上に乗り、何事もなかったように均される。あれほど消えなかった色が、舗装の更新の前ではあっけない。私の伝言は、役目を終えると、宛先ごと無かったことになる。
六年、私は道路にいくつ色を書いてきただろう。そのほとんどは、もう舗装の下に消えた。けれど、誰も読まないあの青は、確かに誰かへの手紙だったのだ。道路は、地下からの手紙でできている。私は今夜も、町が眠るのを待って、缶を振りながら、まだ誰も読まない一通を書きに行く。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。