オキタマサシ(48歳・新聞配達員26年)
雨の日は、起きる時間が三十分早い。晴れの朝なら二時半に目が覚めればいいが、降る朝は二時には布団を出る。販売店に着いてから、朝刊を一部ずつビニールの袋に入れる作業が加わるからだ。雨音が静かに町を包む頃、私はもう、暗い店の灯りの下で袋を開けている。
天気予報を、私は誰より実利的に見る。明日の心持ちのためではない。降水確率五十パーセントという数字を、私は「掛けるか、掛けないか」の一点に翻訳する。五十は、いちばん困る数字だ。四十なら掛けない。六十なら掛ける。五十は、空を自分で読むしかない。だから前夜、私は窓を開けて、雲の流れと風の湿り具合を確かめてから寝るのかもしれない。
もっと大事なのは、降り始めの時刻だ。予報が「明け方から」と言うとき、その「明け方」が私の順路のどこに当たるかを、私は逆算する。四時に降り出すなら、順路の前半、駅向こうの団地のあたりはまだ乾いている。後半の、坂の上の戸建ての列で降られる。だから雨雲が早そうな朝は、順路を半分だけ組み替える。掛けるべき家から先に回る。世間が天気予報を傘の話だと思っている時間に、私はそれを部数と時刻の話として読んでいるのだと思う。
店には袋入れの機械がある。インサーターという。朝刊をくわえさせると、ビニールに送り込んで口を折ってくれる。だが機械は二十部に一度くらい、紙を斜めにくわえて袋を裂く。だから結局、半分は手で入れる。袋の厚みは薄い。指の腹で口を開くとき、乾いた指では滑ってなかなか開かない。だから雨の朝、私の左手の親指と人差し指には、ゴムの指サックがはまっている。
バイクのカブの前カゴには、雨の朝だけ、上からビニールのカバーを被せる。中で袋入りの朝刊が湿気で蒸れないよう、口は前に向けて少しだけ開けておく。走ると、その隙間から雨が斜めに入ってくる。だから赤信号で停まるたび、私はカゴの口を手前に直す。二十六年やっていると、その手は考える前に動く。
差し方も、雨の日は変わる。軒の深い家は、受けまで雨がかからないから、袋の口を下にして差せば水が抜ける。軒の浅い家、ドアに直接挟む家は、口を上にして、雨が入らない向きに折り込む。同じ三十部でも、雨の朝は一軒ごとに向きを判断するぶん、時間がかかる。乾いた朝の倍は、手間がかかる。
いちばん悔いが残るのは、掛けなかった朝に降られたときだ。降り出しが遅いと読んで、ビニールを省いて出た。坂の上に着いた頃、霧のような小雨が落ち始めた。掛けるか掛けないかの、ちょうど境目の雨。私は急いで残りを差したが、何軒かの新聞は、受けの中で角が湿った。その家の人が朝、湿った紙面を開く顔を、私は見たことがない。見たことはないが、想像はしてしまう。あの境目の判断を、私はいまでも夢に見ることがある気がする。
読者は、雨の日のビニールに気づかない。袋に入っていることを、当たり前だと思っている。誰も、店の床で二千枚の袋を開けた三十分のことを知らない。けれど、それでいいのだ。気づかれないことこそ、この仕事の成功なのだ。新聞が濡れていなかった、ただそれだけの朝が、私の三十分の意味だ。気づかれない手間の積み重ねが、この仕事の誇りなのだと、いまでは思う。
今朝も雨だった。二時に起きて、店で袋を開けた。指サックをはめて、機械が裂いた紙を手で入れ直した。カゴにカバーを掛けて、町を一周した。誰も、私が三十分早く起きたことを知らない。新聞は、濡れていなかった。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。