オキタマサシ(48歳・新聞配達員26年)
月末になると、私は昼の世界に出ていく。配達は暗いうちの仕事だから、ふだん読者の顔は見ない。新聞受けの蓋の向きと深さで町を覚えているだけだ。けれど集金だけは違う。夕方、まだ少し明るいうちに、私は集金かばんを提げて、いつもは暗い中で素通りする家のインターホンを押す。月に一度、配達員が読者と顔を合わせる、唯一の時間だ。
集金かばんの中には、釣り銭と領収書の綴りが入っている。領収書は複写式で、ボールペンで強く書くと、下の控えに同じ字が薄く写る。月初に銀行で両替してきた小銭を、私はかばんの中で硬貨ごとに仕切って入れている。十円玉の列、百円玉の列。インターホン越しに「新聞屋です」と言うと、奥で人の動く気配がして、玄関の鍵が回る。その音を、私は二十六年聞いてきたのだと思う。
釣り銭の用意の仕方に、人が出る。三〇二号室の人は、いつも料金きっかりを封筒に入れて、玄関の靴箱の上に置いて待っている。ドアを開けるなり「これで」と封筒を差し出す。顔を合わせるのは三秒だ。一階の奥の家は、いつも千円札で払って、釣りを受け取る。釣りを数えるあいだ、その人は玄関先で、今日は寒いだの、息子が帰ってこないだのと話す。同じ集金でも、封筒の人とは三秒、千円札の人とは三分。料金は同じなのに、流れる時間がまるで違う。
顔がつく、というのは不思議なものだ。配達のあいだ、私にとって三〇二号室は「蓋のバネが固い受け」でしかない。けれど集金で一度顔を見ると、翌朝からその受けに新聞を差すとき、ふっと、あの封筒の人の顔が浮かぶ。受けに顔がつく。暗い順路の中で、その家だけが少し色づくような気がする。配達は無名の仕事だが、集金は、その無名に一瞬だけ名前を与える時間なのかもしれない。
玄関先には、犬がいる家もある。坂の途中の家は、インターホンを押すと中で柴犬が吠える。最初の年は吠えられるたびに身構えたが、いまはもう、私の足音で吠え方が違うのがわかる。郵便屋への吠えと、私への吠えは、明らかに音が違う。飼い主が出てくる前に、私は犬と先に顔見知りになっている。犬は、私が配達でその家の前を毎朝通っていることを、たぶん知っている。
けれど、集金で顔を合わせる読者は、年々減っている。多くの家が口座振替に変わった。集金に行くと、玄関先で口座振替の依頼書を渡されることもある。「来月から引き落としで」。悪気はない。便利なのだ。最近はキャッシュレスの案内も来た。スマホで払えば、私が玄関を訪ねる必要そのものがなくなる。封筒の人も、千円札の人も、一人また一人と、引き落としの家になっていく。月末の私のかばんは、年々軽くなる。
若い配達員は、集金が減るのを楽だと言う。たしかに楽だ。夕方に出ていかなくていい。釣り銭を間違える心配もない。けれど私は、何かが減ると思ってしまう。集金がなくなれば、配達は完全に無人の仕事になる。暗いうちに来て、誰の顔も見ず、誰にも会わずに、ただ受けに差して帰るだけ。読者は、配達員がこの世にいることすら、知らないまま新聞を読む。それはたぶん、とても静かで、とても寂しい仕事だ。
今朝も三時に折込を挟んだ。順路を回りながら、私は今月の集金のことを考えていた。封筒の人、千円札の人、坂の途中の柴犬。あの玄関先の時間が、配達員が読者とつながる最後の接点なのだ。それが消えれば、私はただ、暗い町を一人で回る影になる。集金は、私がまだ「人と人」の仕事をしている、最後の証なのだと、いまでは思う。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。