空き家の、庭
誰も住まない家の、年に二度

オオエサトル(53歳・庭師30年)

誰も住まなくなった家の庭にも、季節は静かに巡ってくる。施主が亡くなっても、庭の手入れの依頼だけは続くことがある。電話をかけてくるのは、たいてい遠くに住む息子さんや娘さんだ。「年に二度だけ、お願いします」。私は庭師として三十年、人の家の庭に年に二度だけ入ってきたが、その家にはもう、入る人がいない。

住む人がいなくなると、庭は早く荒れる。不思議なものだ。見る人がいないと、庭はかえって早く野へ戻ろうとする。手を入れていた家ほど、人が消えるとあっという間に枝が暴れる。半年ぶりに門を開けると、前に来たときの倍も伸びているように見えることがある。誰も見ていない庭は、自分が庭であることを忘れてしまうのかもしれない。

鍵は、息子さんから預かっている。郵便で送られてきた合鍵に、付箋が一枚貼ってあった。「裏の勝手口です」。空き家は水道が止めてある。だから私は、車にポリタンクで水を積んでいく。植木に水をやるためというより、自分が喉を乾かしたときと、道具を洗うためだ。縁側に座っても、お茶は出ない。当たり前のことだが、その当たり前が、空き家の庭ではいちばんこたえる。

伸び放題になった枝に、最初の一刀を入れる。この一刀が、いつもより重い。生きている家の庭なら、伸びすぎた枝も「去年はお元気だった証拠ですね」などと言いながら落とせる。だが空き家では、その枝が伸びた半年のあいだ、家には誰もいなかった。私は誰も見ていなかった成長を、一人で刈り取っていることになる。鋏の音だけが、閉まった雨戸に跳ね返る。

手入れのあいだに、隣の家へ挨拶に行く。持ち主はもういないので、私が代わりに頭を下げる。「いつもご迷惑をおかけして」。隣の奥さんは、亡くなった施主のことを少し話したそうにする。「お元気だったのにねえ」。私は庭の人間で、施主の知り合いではないのに、その家のことを隣の人と話している。庭師というのは、こういうとき、家族の代わりのような顔をしなければならないのかもしれない。

空き家の庭を手入れする理由は、表向きは二つある。一つは、いつか売るときのため。荒れた庭の家は、買い手の印象が悪い。もう一つは、近所迷惑にならないため。越境した枝、落ち葉、虫。だが私は、もう一つ、口にされない理由があるのを知っている。遠くにいる子どもが、親の庭をそのままにしておけない、という気持ちだ。それは庭への気持ちではなく、親への気持ちなのだと思う。庭は、残された家族にとって、亡くなった人の記憶の容れ物なのだ。

手入れが終わると、私は庭の写真を撮る。何枚か撮って、息子さんの携帯に送る。「本日、無事に終わりました」。すぐに返信が来ることもあれば、何日も既読がつかないこともある。遠くにいる人にとって、この写真が、親の家とつながる細い糸なのだろう。私が送っているのは庭の写真だが、受け取る人が見ているのは、たぶん庭ではない。

そして、いつか、あの電話が来る。「今年で、最後にします」。声は申し訳なさそうで、けれどどこか、ほっとしてもいる。家が売れたか、取り壊すことに決めたか。私は「承知しました」と答える。引き止める資格は、私にはない。最後の手入れの日、私はいつもより丁寧に、その庭を整える。次に来る人はいないと知りながら、形をそろえる。

何年か経って、その区画の前を通ることがある。家は更地になり、新しい家が建っているか、まだ売地の札が立っている。私が手入れしていた木は、もうない。木があった場所は、ただの空き地にしか見えない。けれど私には、そこに松があったこと、その松が誰も見ていない半年のあいだも伸びていたことが、分かる。庭は、人が消えても伸びる。そして人が、その庭を手放したとき、ようやく庭も、誰のものでもなくなる。手を入れた分だけ、庭は応える。たとえ見る人が、もういなくても。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。