オオエサトル(53歳・庭師30年)
庭師になって三十年になる。人の家の庭には、年に二度しか入らない。春に一度、秋に一度。だから私は、ある庭の半年を、前に来たときから枝がどれだけ伸びたかで読む。剪定ばさみは細い枝を一本ずつ落とすため、刈り込みばさみは生垣の面をそろえるため。手を抜けば、抜いた分が半年後に形になって出る。
一年目、一九九六年の秋だった。二十三歳の私は、親方について市内の旧家の庭に入った。松が何本もある庭で、地面は苔で、踏むと音が消えた。私は刈り込みばさみで面をざっと作って、早く何本も片づけたかった。立派な松を、何本も任されるのだと思っていた。
親方は、一日かけて、一本の松だけを揉んだ。揉む、というのは古い葉を指で一枚ずつ引いていく作業だ。鋏は使わない。下を向いて茶色くなった葉から先に取り、内側の混み合った所を透かす。そうして来年伸ばす芽を選ぶとき、二股になった片方を爪で落とす。早いほうではなく、太いほうを残す。私はその手元を、しゃがんだまま半日見ていた。
「一本だけですか」と訊くと、親方は手を止めずに言った。「松は、手を入れた分しか応えない。庭で一番正直な木だ」。刈り込みばさみで面を作れば早く済む木もある。だが松は、ごまかすと翌年そのまま不格好に伸びる。手を抜いた分が、半年後にそっくり返ってくる。
切った葉は、足元のブルーシートに落とす。シートは手前を高くして敷く。風で松葉を逃がさないためだ。一日の終わりに四隅から畳んで包みにし、軽トラックに積む。枝を縛る親方の縄は、二度ひねって輪を作り、片手で締める。私は刈り込みばさみを持ったまま、その手を見ていた。
午後、施主の奥さんがお茶を持って縁側に出てきた。親方は受け取りながら、二言三言かわした。この家は毎年同じ時期に同じ職人を呼ぶのだと、帰りの軽トラックで親方が言った。庭木の手入れは一度きりではなく、年契約の長い付き合いなのだと、そのとき知った。来年も、この松の前にしゃがむ人間が、もう決まっている。
翌年の春、私はその庭で初めて松を任された。刈り込みばさみを腰から外して地面に置き、しゃがんで、茶色い葉から指で引いた。早いほうではなく太いほうを残した。鋏を置いて手を使ったのは、あの日の松を覚えていたからだ。
それから三十年。枝が暴れはじめた庭がある。代替わりして、松を切れと言われた庭がある。縁側に誰も出てこなくなり、やがて雨戸の閉まったままになった庭がある。お茶が出るか出ないか、それだけでも、その家の半年は知れる。今日も私は、どこかの庭にしゃがんで、古い葉を一枚ずつ引いている。手を入れた分だけ、松は応える。