落ち葉の、季節(第二稿)
散る前に切るか、散ってから掃くか

オオエサトル(53歳・庭師30年)

その年最初の電話は、たいてい「お隣から言われちゃって」で始まる。落ち葉が境界を越える、樋が詰まる、車の上に積もる。苦情が一つ入ると、それが私への依頼になる。秋の手入れには一つの判断がある。葉を、散る前に切るか、散ってから掃くか。枝ごと落として量を減らすか、地面に落ちたものを集めるか。早く切れば掃く手間は減る。だが葉は散る直前まで木に養分を返している。木は葉を落として冬支度をする都合があり、私はその途中に鋏を入れることになる。

境界の枝は、勝手に切れない。隣の敷地に越境した枝は、木の持ち主のものだ。落ちた葉は誰のものでもないのに、枝のほうには持ち主がいる。施主は「向こうへ出ている分を切ってくれ」と言うが、私が切れるのはこちら側の付け根までだ。だから塀の内側ぎりぎりで、隣へ一枚でも飛ばさないよう、内に向かって透かす。この説明を、毎年どこかの庭で繰り返す。

掃除はその日、裏から始めた。駐車場のコンクリートは、ブロワーで奥の塀際へ一気に寄せた。機械は速いが音が出る。早朝に回せば、その音がまた次の苦情になる。だから音を出すのは、人の起きた九時を過ぎてからだ。表の苔庭に移ると、ブロワーは肩から下ろし、竹箒に持ち替える。風を当てれば苔がめくれる。穂先を寝かせて、軒下へ向けて掃く。掃いた跡に細い筋が残り、その筋を軒に沿わせて流すと、湿った朝は葉が地面に貼りついて、一度では取れない。二度、同じ筋をなぞる。

集めた葉は袋に詰める。一本の木が一年でどれだけ働いたかは、袋の数で量れる。数えてはいない。だが結ぶときの重みで、前の年より一つ多いか少ないかは手が知っている。今年の欅は重かった。夏に弱った年は、持った瞬間に軽い。

柿の木のある庭では、先の方に二つ三つ、わざと残す。木守り柿という。その日も施主が縁側から「上のほう、取り残しですよ」と教えてくれた。私は脚立の上から「あれは残すんです」と答えた。「全部もいでしまうと、来年が寂しいので」。施主は少し黙ってから、「そういうものですか」と言った。私は「そういうものです」とだけ返して、また下を向いた。残す理由を、それ以上は言わなかった。

軽トラックの荷台に、葉の袋を積む。施主は隣との一件を片づけて、玄関先まで見送りに出てきた。残った葉は、これから木が自分のとき間で落としていく。私が今日落としたのは、散る前の、まだ働いていた分だ。早く切った分だけ、木の冬支度を少し早めたことになる。

来年の春、私はまたこの庭に入る。木守りの柿は、冬の鳥が食べたか、自分で落ちたか、どちらにせよ枝には無いだろう。境界の枝は、また隣へ伸びはじめている。庭は施主のものだが、木の時間は木のものだ。私は今年も、その間にしゃがんで、内へ向かって枝を透かしている。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。第一稿への辛口レビューを経て書き直した第二稿です。