落ち葉の、季節
散る前に切るか、散ってから掃くか

オオエサトル(53歳・庭師30年)

秋になると、落ち葉が舞い散る庭の景色は、何度見ても胸を打つ。私は庭師として三十年、年に二度だけよその家の庭に入ってきた。秋の手入れには、ほかの季節にはない一つの判断がある。葉を、散る前に切ってしまうか、散ってから掃くか。どちらにするかで、その家との半年の付き合い方が決まると言ってもいい。

散る前に切るというのは、枝ごと落とすことだ。葉がまだ枝についているうちに、込み合った枝を間引いて、量そのものを減らしておく。散ってから掃くというのは、文字どおり、地面に落ちたものを集めることだ。早く切れば掃く手間は減る。だが木にしてみれば、まだ働いている葉を取り上げられることになる。葉は、散る直前まで木に養分を返している。木は葉を落として冬支度をする都合があり、私はその都合の途中に鋏を入れることになる。

たいていの依頼は、近所付き合いから来る。「お隣から言われちゃって」。電話口で施主がそう言うとき、それはもう庭の話ではなく、人の話だ。落ち葉が境界を越えて隣の敷地に飛ぶ。樋に詰まる。車の上に積もる。苦情が一つ入ると、それが庭仕事の依頼に変わる。私のところに来る秋の仕事の半分は、この「飛ぶ前に」から始まっていると言ってもいいのかもしれない。

境界の枝には、決まりがある。隣の敷地に越境した枝は、勝手に切れない。落ちた葉は誰のものでもないが、枝は木の持ち主のものだ。だから私は、塀の内側ぎりぎりで落とす。隣に一枚でも多く飛ばさないように、内に向かって透かす。施主は「向こうへ出ている分を切ってくれ」と言うが、私が切れるのはこちら側の付け根までだ。この説明を、毎年どこかの庭で繰り返している。

掃除の道具は二つある。ブロワーと、竹箒。ブロワーは速い。風で葉を一か所に寄せられる。だが音が出る。早朝にブロワーを回せば、その音そのものがまた苦情になる。竹箒は遅いが、音がしない。掃き目という言葉がある。竹箒で掃くと、地面に細い筋が残る。その筋の向きをそろえると、苔の庭は掃いた跡まで景色になる。ブロワーの後には、筋は残らない。私は、人の見る場所は箒で、見ない裏は機械で、と使い分けているつもりだ。

集めた葉は、袋に詰める。一本の木が一年でどれだけ働いたかは、その袋の数で量れる。よく茂った年は袋が増え、夏に弱った年は減る。私は袋を結びながら、今年はこの木はよく働いたな、と思う。数えているわけではないが、手が覚えている。前の年より一つ二つ多いか少ないか、それくらいは持ったときの重みで分かる。

柿の木のある庭では、実を全部は取らない。先の方に二つ三つ、わざと残す。木守り柿という。冬の鳥のため、来年もまた実りますようにという願いのためだと、昔の人はそうした。だが近ごろの施主は、これを知らない。「取り残しがありますよ」と親切に言われることがある。私はそのたびに、あれはわざと残しているのです、と説明する。残すことに意味がある、と言うと、たいていの人は少し驚いたような顔をする。

そうして秋の一日が終わる。軽トラックの荷台には、葉の詰まった袋がいくつも積まれている。施主は隣との関係を一つ片づけられて、ほっとした顔をしている。木は、残った葉を、これから自分のとき間で落としていくだろう。庭は施主のものだが、木の時間は木のものだ。私はその二つの都合の間に立って、鋏を入れたり、箒を使ったりしている。

結局のところ、秋の庭仕事とは、人と木の交渉の場なのだと思う。施主には近所付き合いの事情があり、木には冬支度の都合がある。その間に立つのが、私たち庭師の役目なのだろう。落ち葉が舞い散る庭の前で、私は今日も、散る前に切るか、散ってから掃くかを考えている。木守り柿を二つ残して、私はまた、来年の秋を待つ。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。