オリグチハジメ(60歳・傘の修理職人38年)
「父の傘なんです」。そう言って傘を置く客が、ときどき来る。直すより新しいのを買ったほうが安い、と私は必ず説明する。それでも客は、決まって「お願いします」と言う。市価より修理代が高くつく傘というのは、たいてい、そういう傘なのだと思う。
形見だという傘には、古い良い傘が多い。昔の傘は、直して使う前提で作られていた。骨は太く、ダボはしっかりしていて、露先は一本ずつ手で縫い留めてある。生地が傷んでも、骨はまだ二十年戦える。使い捨ての時代の傘とは、そもそも生まれが違うのだろう。
生地の張り替えという仕事がある。骨だけを残して、布を新しいものに替える。古い生地を露先からほどき、骨に沿って型を取り、新しい布を裁って縫い付けていく。直し終えると、生地は新しく、骨は父のままだ。客はその傘を、また何十年も使うのだろう。
あるとき、年配の女性が一本の黒い傘を置いて、こう言った。「持ち手の、この染みだけは、残してほしいんです」。持ち手の籐の巻きには、手のかたちに汗の染みが黒く沈んでいた。父親が握り続けた場所だった。生地は新しくしてかまわない、けれど、この染みだけは——と、彼女は言った。
形見の傘を持ってくる人は、不思議と、「使わずにしまっておく」とは言わない。みな「また使いたい」と言う。雨の日に差して、また濡れて帰ってくる。そうやって、形見は使われることで形見になっていくのだと思う。けれど私は、それを口には出さない。聞かれないからだ。
見積もりの説明は、いつも気が重い。「生地の張り替えで一万二千円、ろくろが摩耗しているので、ここも換えると一万八千円ほどになります」。ろくろというのは、傘を開いたり閉じたりするときに骨を束ねて滑る部品で、古い傘ほどここがすり減っている。新しい傘なら三千円で買える、とは、もう言わない。言っても無駄だと知っているからだ。
直し終えた傘を、客に渡す前に、私は必ず一度、開いて見せる。ろくろが滑り、骨が広がり、新しい生地がぴんと張る。その瞬間の、客の顔。形見の傘が、もう一度、傘になって開く瞬間だ。多くの客が、何も言わずに、しばらくその傘を見ている。
渡すときには、開閉の確認をしてもらう。客は自分の手で、傘を開き、閉じ、もう一度開く。父親と同じ手つきで、同じ持ち手を握っている。汗の染みは、新しい生地の下で、変わらずそこにある。客が満足げにうなずくと、私の一日は、少しだけ報われたような気がするのだった。
形見は、使われて形見になるのだ。しまい込まれた傘は、ただの遺品にすぎない。けれど雨の日に開かれる傘は、亡くなった人の手のかたちを、いまも誰かの頭の上で支えている。私はそういう傘を直してきたのだと、いまでは思う。骨は父のまま、生地は新しく。それが、私の仕事のすべてなのかもしれない。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。