オリハシツムギ(28歳・機屋の織り手9年)
冬の仕事は、床に水を撒くことから始まる。手桶から柄杓で汲んで、コンクリートの目地に沿ってまく。撒いた水は目地に吸われ、平らな面に残ったぶんは、暖房の入る昼前にはもう乾いている。だから午前中にもう一度まく。人のためではない。撒いた水がゆっくり蒸発して空気に重みを足す、その湿りは、糸のためのものだ。
床撒きと一緒に、加湿器を回す。何台もが白い霧を吐いて、霧は織機の上を低く漂う。湿度計は、冬は十五分おきに見る。五十%を割ると毛羽が立ち始め、四十%まで落ちると経糸が言うことを聞かない。だから天気予報の乾燥注意報は、私には工場の警報だ。アナウンサーが「空気が乾燥しています」と言うたびに、私は明日の床撒きを一杯ぶん増やす。
乾いた日の経糸は、暴れる。静電気を帯びた糸どうしが反発して、平行に並んでいるはずの一本一本が浮き上がり、隣とこすれてもつれていく。糸が、糸を嫌う。整経のときにきれいに揃えた面が、湿度が落ちた朝にはふわりと逆立っている。近づくまいとして、かえって絡む。冬の経糸を見ていると、糸が小さな磁石になったように思える。
静電気に悩むのは、糸だけではない。事務所のドアノブに触れると、青い火花が散って指先が痛い。だから機械を触る前に、まず壁の鉄骨に手のひらを当てる。一瞬、ぱちっと来て、それで体の静電気が抜ける。抜いてから、糸に向かう。自分の静電気を糸に移したら、暴れている糸をさらに暴れさせるだけだ。冬のあいだ、私の手は鉄骨に触れてから糸に触れる順番を、考えずに守っている。
糸が切れる回数も、冬は上がる。夏なら一巡りして一度も止まらない列が、冬は二度三度とドロッパーを落とす。だから巡回を増やす。止まった織機の前で機結びをするのだが、冷えた指は鈍い。結び目を米粒の半分に締めるのに、夏より一拍長くかかる。指先の感覚が遠い。同じ手のはずなのに、冬の指は私から少し離れたところで動いている。
年に一度、冬に機械を止めて掃除をする。乾いた空気が舞わせた埃が、油と混じって織機の隙間に固まっている。飴色に固まった古い油を、ヘラでこそげ落とす。何年ぶんかの埃と油は、思ったより重い。落として新しい油を差すと、織機は次の朝、少しなめらかな音で打ち始める。掃除のあとの音の変化は、私の耳がいちばんよく分かる。
ある朝、扉を開けると、何もしないのに湿度計の針が五十%を超えていた。床はまだ撒いていない。空気のほうが先に湿っていた。その日の経糸は、逆立っていた毛羽が寝て、隣どうし穏やかに平行を保っていた。床に水をまかなくても、糸が揃っている。私は柄杓を手に持ったまま、しばらく針を見ていた。冬が、終わるのだった。