足音の、録り直し
フォーリー一年目、本物の音を捨てると教わるまで

オリカサノン(40歳・フォーリーアーティスト16年)

映像に音を足す仕事を十六年続けている。スクリーンの中で人が歩けば、その足音はたいてい、後から私たちがスタジオで付けたものだ。役者は撮影の現場で確かに歩いている。けれどその足音は、ほとんど使えない。私は本物の音を消して、本物らしい音を置く人間である。

フォーリーという。映画に映る人物の足音、衣擦れ、ドアの開閉、コップを置く音——画面に合わせて、生身の演技で録っていく。録音技師でも作曲家でもない。音の、影武者のような仕事だ。私がこの世界に入ったのは二〇一〇年、二十四歳の年だった。映画の魔法を裏側から支える、そんな仕事に憧れていたのだと思う。

スタジオには床がいくつも埋め込まれている。砂利の床、板の床、土の床、タイルの床。足音を録るための床のコレクションだ。同じ「歩く」でも、誰がどんな床をどんな気持ちで歩くかで、音はまるで違う。だから私たちは、画面の人物の体重や、靴や、そのときの感情まで、足の裏で演じ分ける。足音は、演技の一部なのだ。

入ってまもない夏の日のことだったと思う。スタジオには機材の匂いと、わずかな埃の匂いが静かに満ちていた。師匠が、雪の上を歩く場面を録ろうとしていた。私は当然、本物の何かを踏むのだと思っていた。師匠が手に取ったのは、片栗粉の入った布袋だった。袋を握ると、きゅっ、きゅっ、と、まぎれもなく雪を踏む音がした。

師匠は言った。「本物の音は、使えないことが多い。本物は地味すぎる。観客が信じる音を作れ」。雪の足音は片栗粉、折れる骨はセロリ、燃える炎はセロファン。置き換えには、長い時間をかけて磨かれた定番がある。本物よりも本物らしい嘘の、辞書のようなものだ。

私はしばらく、その意味を考えていた。本物が嘘で、嘘が本物だというなら、私はいったい何を録っているのだろう。けれど片栗粉の音を自分の手で握ってみると、頭より先に手が信じていた。これは雪だ、と。観客の耳がそう信じるなら、それはもう雪なのかもしれない、と思った。

怖いのは、音を足すことではなく、足さないことだった。ある場面で、師匠は私が付けた足音をすべて消した。無音。人物はただ廊下を歩いている。なのに、音のないその数秒が、どんな足音より雄弁に怖かった。音を足さないことも、音の設計なのだ。何を鳴らすかと同じだけ、何を黙らせるかを、私たちは選んでいる。

はじめて自分の音が入った映画を、客席で聴いた日のことは忘れない。誰も、その足音を私が片栗粉で作ったとは知らない。エンドロールの隅に、小さく名前が出る。仕事の量と、クレジットの大きさは、いつも反比例している。けれど暗い客席で、隣の知らない誰かが私の音に体をすくめるのを感じたとき、匿名のままの、静かな喜びがあった。

あれから十六年。私は本物の音を疑い、信じられる音を探し続けてきた。本物よりも本物らしい音、それを見つけることが、私の仕事のすべてだ。信じられる音を作り続けたことが、私をいまの私にしてくれた。今日もスタジオの床たちは、踏まれるのを待って静かに並んでいる。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

辛口レビュー →
第二稿(改稿版)→
← シリーズ目次に戻る

このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。