オリカサノン(40歳・フォーリーアーティスト16年)
スタジオの壁ぎわには、天井まで届く棚がある。並んでいるのは食器、ドアの金具、布、瀬戸物。よその家の物置と変わらないように見えるかもしれない。けれどここに置かれた物は、ひとつ残らず、見るためではなく鳴らすために集められている。私はフォーリーアーティストで、映像に音を後から付ける仕事を十六年してきた。この棚は、私の音の在庫だ。
棚は用途で分かれている。鳴らすための食器の段、開け閉めのためのドア金具の段、壊すための瀬戸物の段。同じ皿でも、置く音がほしい皿と、割る音がほしい皿は別の棚に入る。物の値打ちが、見た目ではなく音で決まる場所だ。だから安物の縁の欠けたカップが、無傷の高級な皿よりずっと棚の奥の、取りやすい位置にある。
仕入れは、たいていガラクタ市とリサイクルショップで済む。私は店先で、物を手に取って叩く。指の腹で、爪で、卓の角で。店員にはきっと不審な客に映っているだろう。けれど見た目のいい皿が、いい音を出すとは限らない。重さと厚みと、焼きの締まり方で、音はまるで変わる。私は値札の数字ではなく、叩いたときの返事の高さで物を選んでいる。
定番の道具には寿命がある。革のジャケットが一着、長く使われている。衣擦れの音を録るための物だ。新しい革は硬くて、音が一様に鳴る。けれど袖を通し、揉み、何百回と擦るうちに、革のあちこちで音が変わってくる。肘の内側はやわらかく、肩は乾いて、背中はまだ艶やかに鳴る。使い込まれて音が育つ道具には、不思議とそれぞれの物語が宿るように思える。
難しいのは、時代物の音だ。昭和の場面で、黒い電話のダイヤルを回す音を求められることがある。ジー、と戻ってくる、あの回転の音。指を穴に入れて、止めまで回して、放す。いまの若い役者にはこの仕草の見当がつかない。私の棚にはまだ本物のダイヤル式が一台あるけれど、この音を耳で知っている人は、年々減っていくのだろう。
雨戸の音もそうだ。木の戸が溝を滑って、ごとり、と戸袋に収まる。あの重さと渋さは、いまのサッシでは出せない。私はその音を、子どもの頃に祖母の家で聞いて知っている。けれど、知っているからといって、いつまでも録れるとは限らない。音を知る人が減るというのは、たぶん、その音を作れる人が減るということなのだと思う。
棚のいちばん上には、壊し物の在庫がある。割るためだけの瀬戸物だ。これは一度しか使えない。本番で、画面の人物が皿を落とす、その一瞬に合わせて、私も手の中の皿を割る。やり直しはきかない。録る前、私はいつも息を止める。一発の瀬戸物の棚は、いつもどこか緊張している。
棚の整理の日には、私は端から物を鳴らして回る。皿を打ち、金具を開け閉めし、革を揉む。音の在庫の、棚卸しだ。鳴らしてみて、思った音が出ない物は、もう寿命だ。棚から下ろし、新しいのを探しにまた店先へ行く。物の手触りと音だけで一日が過ぎていく。
棚を見上げていると、思う。私には弾ける楽器がない。けれどこの棚に並んだ物のひとつひとつが、私の音を出すための鍵盤なのだ。音の在庫が、私の楽器なのだ。今日もこの棚は、鳴らされるのを待って静かに並んでいる。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。