オリカサノン(40歳・フォーリーアーティスト16年)
映像に音を足す仕事を十六年している。足音、衣擦れ、皿の触れ合う音。たいていは「足りない音をどう作るか」を考えている。けれどいちばん難しいのは、足すほうではなく、引くほうだ。静かなシーンほど、私は手が止まる。沈黙は雄弁だと言うけれど、その雄弁を作るのが、いちばん骨が折れる。
そもそも無音というものは、この世にない。完全に音を消したシーンを置くと、観客はそこで「映像が壊れた」と感じる。だから静かなシーンにも、私は音を入れている。空調のかすかな唸り、遠くの車、人物の衣擦れ。「静かさ」というのは、音がないことではなく、小さい音を選んで置くことでできている。静けさは、引き算ではなく、別の足し算なのだと思う。
先日、台所で女が一人、立っているだけのシーンを任された。台詞はない。動きもほとんどない。私が入れられるのは、息遣いと、エプロンの裾がわずかに擦れる音だけだ。最初、私は冷蔵庫の唸りと、外の鳥の声を足した。豊かになった、と思った。けれど監督は「足しすぎだ」と言った。鳥が一羽鳴いた瞬間、女の沈黙が「のどかな朝」になってしまう。音を一つ足すたびに、シーンの意味が動く。怖いのはそこだ。
監督との往復は、たいてい言葉が足りない。「もっと静かに」と言われる。けれど私が音量を下げると、「そうじゃない」と返ってくる。何度かやって、ようやく分かった。監督が言う「静かに」は「音を減らせ」ではない。「違う音にしろ」だったのだ。私は冷蔵庫の唸りを消して、代わりに、女が握る包丁が俎板にあたる前の、ほんの一瞬の衣擦れだけを残した。音の数は増えたのに、シーンは静かになった。
静けさにも種類がある。ホラーの静けさと、ラブシーンの静けさは、同じ音量でも、まるで質が違う。ホラーの静寂は、観客に次の音を待たせるための静けさだ。何か鳴るはずだ、と耳を前に傾けさせる。だからわざと、空調の唸りを少しだけ不自然に長く伸ばす。ラブシーンの静けさは逆で、もう何も来なくていい、という安心の静けさだ。二人の衣擦れと呼吸だけを、近くに置く。緊張と親密。同じ「静か」の二文字が、まったく逆の仕事をする。
自分の付けた音が正しいかどうか、確かめる方法がある。効果音を全部消したラフ版を観るのだ。台詞と音楽だけの、骨だけの映像。それを観ると、自分がさっき付けた音が、何の役に立っていたのかがはっきり分かる。あってもなくても同じだった音は、消した版のほうが、むしろ良く見える。役に立っていた音だけが、消すと寂しくなる。音の値打ちは、足したときよりも、消したときにこそ分かる。
職業病だと思うが、休日に家にいると、耳が勝手に働いてしまう。静かな部屋だ、と思った次の瞬間、音の層がほどけて聞こえてくる。冷蔵庫の唸り、その奥の時計の秒針、もっと奥の、外を走る車。さらに奥に、自分の呼吸。静かな部屋なんて、どこにもない。私はただ、静かだと感じる音の組み合わせの中に座っている。耳の解像度だけが、仕事のぶんだけ上がってしまった。
音を足す仕事を十六年してきて、いま思うのは、静けさもまた音なのだ、ということだ。静かなシーンは、音を引いた場所ではなく、いちばん慎重に音を選んだ場所だ。私は無音を作っているのではない。聞こえないほど小さい音で、聞こえないという嘘をついている。それが、静けさを設計するということなのだと思う。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。