解凍の、計算
明日の餌は、前の晩から始まっている

オオサコミナト(29歳・水族館の調餌係7年)

窓のない調餌室に、夜がある。閉館後の館はしんと静まりかえり、外の街の音も届かない。蛍光灯だけが白々と灯る部屋で、私は明日のための仕事をする。調餌係の一日は、たぶん多くの人が思うより早く始まっている。包丁を握る朝ではなく、その前の晩から。明日の餌は、もう今夜、静かに始まっているのだ。

解凍には段取りがある。冷凍庫から出して、ただ放っておけばいいわけではない。魚種ごとに戻る速さが違う。アジは比較的早い。イカは遅い。オキアミは早すぎて、油断するとすぐ崩れる。だから前の晩、私は翌朝に使うぶんを冷凍庫から冷蔵の解凍棚へ下ろす。何を、いつ、どの段に置くか。それを決めるのが、夜の仕事のいちばん大事なところだと思う。

解凍棚は限りがある。四度に保たれた棚は段が決まっていて、置ける量も決まっている。だから棚の場所取りが要る。早く戻したいものを下の冷気の弱い段に、ゆっくりでいいものを上に。明日の朝、いちばんに使うアジを取り出しやすい手前に。冷凍庫の在庫表とにらめっこしながら、私は明日の朝の手の動きを、夜のうちに先回りして並べておく。

急ぐと、ドリップが出る。常温に出したり、水をかけたりして早く戻そうとすると、魚の組織が壊れて、赤い汁が出る。あれは魚の旨味であり、栄養そのものだ。ドリップが出たぶんだけ、餌は痩せる。だから解凍は、ゆっくりがいい。時間をかけて、低い温度で、魚自身のペースで戻してやる。急がば回れ、とはよく言ったものだと思う。

失敗には種類がある。戻しが足りないと、アジは芯が凍ったままになる。表面は柔らかいのに、中心だけが固い。逆に戻しすぎると、イカは崩れる。包丁を入れる前に、もう身が指の間で溶けていく。芯の凍りも、崩れも、どちらも餌にならない。解凍は、足りなくても、過ぎても、いけない。ちょうどの一点を、夜の段取りで狙う。

季節で速さが変わる。夏は調餌室の気温が上がるから、同じ段取りでも早く戻る。冬は遅い。だから夏と冬で、冷凍庫から下ろす時刻を変える。夏は遅めに、冬は早めに。この調整は、温度計よりも、長年の体の感覚に頼っている部分が大きいのかもしれない。季節が、私の夜の時計を少しずつずらしていく。

朝、仕上がりは指先で確かめる。解凍棚から出したアジを一尾手に取り、軽く押す。包丁がすっと入るくらいの固さが正解だ。柔らかすぎても、固すぎてもいけない。温度計を当てるより、指の腹で押したときの返りで分かる。七年やっていると、触れた瞬間に「今日は少し早かった」「これはちょうどいい」と分かるようになる。指先が、いちばん正確な温度計なのだと思う。

飼育員から「今日は食いが悪い」と連絡が来る日がある。すると私は解凍を見直す。戻しすぎてドリップが出ていなかったか。鮮度は落ちていなかったか。餌の質は、水槽の向こうの動物の体調に、長い時間をかけてつながっている。解凍ひとつが、ガラスの向こうの健康に届く。その距離は遠いけれど、たしかにつながっているのだ。

夜の解凍棚は静かだ。明日のぶんの魚が、暗い冷蔵の棚で、ゆっくりと戻っていく。私はその段取りを終えて、館を出る。解凍ひとつが、明日の餌になり、餌が動物の体をつくる。前の晩の静かな計算が、水槽の向こうの命に届くのだ。調餌係の仕事は、包丁の音だけではない。誰も見ていない夜の、解凍の計算でもあるのだと、いまでは思う。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。