オオシマトモコ(51歳・銀行窓口テラー29年)
窓口に座って二十九年になる。一円の誤差も許されない場所で生きてきた。閉店後に勘定が合わないと、全員が帰れない。だから私は、数字を曖昧に扱う癖を、入行してすぐに捨てたのだと思う。合うか、合わないか。窓口の世界は、そのどちらかしかない。
通帳記入を頼まれることが、一日に何度もある。お客様が通帳を差し出す。私はそれを受け取り、機械に通す。プリンタが小さく唸って、前回からの取引を一行ずつ印字していく。あの音が、私はわりと好きだ。午後の窓口に西日が差し込む時間、印字音だけが静かに響くことがある。
一年目の秋だったと思う。あるお客様の通帳を機械に通したとき、見慣れない一行が印字された。「未記帳分が多すぎて合算されました」。細かい入出金が、一行にまとめられてしまったのだ。何件かの取引が、ひとつの数字に省略された。通帳には、その日付と合算額だけが残った。
通帳を返すと、お客様は少し残念そうに、「あら、まとまっちゃった」とおっしゃった。年配の女性だった。私はそのとき、ただ謝ることしかできなかった。機械の都合で、お客様の記録が省かれてしまったような気がして、申し訳ないような気持ちになったのを覚えている。
けれど、その「あら、まとまっちゃった」という一言が、長く私の中に残った。まとまって困るものとは、何だろう。一件ずつ記帳されていれば見えていたはずの、買い物の日や、振込の日や、お金を引き出した日。それが消えて、ひとつの数字になる。お客様は、お金そのものではなく、その細かさを惜しんでいたのかもしれない。
それからというもの、私は記帳の頻度に、その人が出るのだと気づくようになった。毎週きちんと記帳に来る方は、通帳に空白行を作らない。一行ずつ、几帳面に埋まっていく。逆に、年に一度しか来ない方の通帳は、合算の一行だらけになる。残高は決して見ない。それは詮索だ。私が見ているのは、記帳という行為のほうだ。通帳は、お金の日記なのだと思う。
近頃は通帳レスが進んだ。アプリで残高を見て、紙の通帳を持たない方が増えた。それでも、紙の通帳を選び続ける方がいる。理由を尋ねたことはないけれど、繰越のときに渡す新しい通帳の、あの硬い手触りを思うと、なんとなくわかる気もする。新品の通帳は、まだ一行も印字されていなくて、表紙がぴんと硬い。あれは、これから書かれる日記の、白紙なのだ。
副印鑑が廃止され、番号札の機械が変わり、硬貨の計数機の音も新しくなった。窓口の風景はずいぶん変わった。けれど、お客様が通帳を差し出し、私が機械に通し、プリンタが一行ずつ印字するあの所作だけは、二十九年、変わっていない。
あの日の「あら、まとまっちゃった」が、私をいまの私にしてくれた。一年目の私は、通帳をただの帳簿だと思っていた。でもあの一言が、通帳は印字される日記なのだと教えてくれた。以来、私は窓口で、お金ではなく、記帳という行為を見つめる観察者になったのだと思う。今日もプリンタは、静かに一行ずつ、誰かの日々を刻んでいる。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。