硬貨の、持ち込み
計数機が、何年分かを数分にする

オオシマトモコ(51歳・銀行窓口テラー29年)

硬貨を持ち込むお客様は、決まって少し恥ずかしそうにしている。袋や缶を窓口にそっと置きながら、「こんなに細かくてすみません」とおっしゃる。謝る必要のないことを謝る、あの定型句。私はその言葉を、二十九年で何百回聞いただろうか。

窓口の奥に、硬貨の計数機がある。受け取った硬貨を投入口にまとめて流し込むと、機械が小さく唸りはじめ、内部で硬貨同士がぶつかり合う、あのざらりとした音が響く。やがて表示窓に枚数と金額が出る。何年分かの五百円玉が、数分で数字になる。ためてきた時間の長さと、それを数える速さの落差に、私はいまも少しだけ気持ちがざわつく。

持ち込みの形態はいろいろだ。スーパーのビニール袋に無造作に入れてくる方、煎餅の缶にぎっしり詰めてくる方、銀行の硬貨袋にきちんと分けてくる方。汚れのひどい硬貨や、まぎれこんだ外国コインは、計数機が弾いて返してくる。そういうものを、私はそっとよけてお返しする。入金と両替は違う手続きだから、どちらをご希望か、まず伺う。

子どもの貯金箱を持ってくる親子がいる。陶器の豚をハンマーで割ったのだろう、欠片のまじった硬貨を、お母さんが申し訳なさそうに差し出す。私が計数機に流し込み、表示窓に金額が出る。その瞬間、横で背伸びをしていた子どもの顔が、ぱっと明るくなる。窓の外には午後の光が差し込んでいて、その子の頬を照らしていた。お金がはじめて、その子にとって意味のある数字になった瞬間だったのだろう。

逆の持ち込みもある。亡くなった親の家から出てきた小銭を、紙袋いっぱいに抱えてくる方。引き出しの奥、仏壇の下、財布のあちこちから集めたのだという。古い十円玉が多く、表面が黒ずんでいる。私は計数機に流しながら、この硬貨が触れられてきた年月のことを、つい思ってしまう。一枚一枚に、その人の暮らしの指紋が残っているような気がする。

数年前、硬貨取扱手数料というものが導入された。一定の枚数を超えて入金すると、枚数に応じて手数料がかかる。「数えるのにもお金がかかるのですか」と、お客様はたいてい驚かれる。その役回りを説明するのは、いつも私だ。ためた本人にとっては思い出の山が、銀行にとっては数える手間の山なのだと、説明しながら少し申し訳なく思う。

手数料が入ってから、持ち込みの風景は変わった。袋いっぱいの硬貨を抱えてくる方は減り、こまめに少しずつ入れる方が増えた。あの、何年分かを一気に流し込む光景を、近頃あまり見なくなった気がする。計数機の音も、以前ほど長く響かなくなったように思う。時代が変わったのかもしれない。

計数が終わると、計数結果の伝票が出る。枚数別の内訳と合計額が、小さな紙に印字されている。それをお客様にお渡しし、入金の手続きに移る。お客様は伝票をしばらく見つめてから、財布にしまう方が多い。数字になってしまった時間を、もう一度確かめているように見える。

貯金箱は、時間の缶詰なのだ。硬貨を一枚ずつ入れていった日々が、缶の中に静かに眠っている。計数機は、その缶を開けて、中の時間を数字に変える装置だ。「こんなに細かくてすみません」と謝るお客様に、本当は謝ることなんてないのだと、私はいつも伝えたくなる。細かさこそが、ためてきた時間の証なのだから。今日も計数機は、誰かの何年分かを、静かに数えている。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。