両替の、新札
「新札でお願いします」には季節がある

オオシマトモコ(51歳・銀行窓口テラー29年)

窓口に座って二十九年になる。お客様が両替依頼書を差し出すとき、金額の欄より先に、私はその一言を聞く。「新札でお願いします」。窓の外には三月の薄い日差しが差し込んで、ロビーには卒業の季節のざわめきが静かに満ちていた。同じ一万円が、ただの一万円ではなくなる瞬間が、その言葉にはある。

新札を頼みに来るお客様には、季節がある。三月は卒業と送別で増える。春から初夏は結婚式が続く。十二月の終わりから年明けは、お年玉の新券が出る。両替依頼書の枚数の欄を見れば、だいたい用途がわかる。三万円ぶんの千円札を新札で、と書かれていれば、たぶん何人かに配るのだろうと思う。

新券の在庫は、支店ごとに管理されている。金庫の中に、帯封のかかった束で置いてある。帯封には発行の枚数が刷ってあって、私は束を取り出すと、まず帯を切る。切ったばかりの新札には匂いがある。インクと紙の、乾いた匂い。指サックをはめて一枚ずつ数えると、紙がまだ硬くて、めくる先で小さく音が立つ。手に吸いつくほど揃った束を、私はお客様の前で数え直す。

ご祝儀袋を持参して、窓口でその場で入れる方がいる。両替した新札を受け取ると、鞄から袱紗を出し、袋を開いて、折り目をつけないように札を入れる。窓口のカウンターで、向きを揃えて。私は数え終えた札をお渡ししたあと、その手元を見ないようにして、次の伝票に目を落とす。改まったお金を扱う人の手元は、見るものではない気がするからだ。

反対に、「使い古した感じのを」と頼む方もいる。不祝儀のためだ。新しい札は、不幸を待っていたようでいけない、という。けれど両替の窓口に、ちょうどよく使い古した札ばかりが揃っているわけではない。私は手元の札の中から、折り目のついたもの、端の柔らかくなったものを選んで束ねる。新札を選り分けるより、旧札を選り分けるほうが、ずっと手間がかかる。ご祝儀は新札、不祝儀は旧札。その使い分けを、窓口は何も言わずに支えている。

混雑する季節には、新券が切れる。お金はある。一万円札も千円札も、金庫にいくらでもある。けれど、新券だけがない。「新券のご用意が切れておりまして」とお詫びするのは、難しい。お金がないのではなく、お金の形がない、と言っているのだから。お客様は怪訝な顔をされる。残高はあるのに、と。私は刻みの説明をするときのように、新券と通常の札が別の管理であることを、できるだけ静かに伝える。

両替には手数料がかかる。枚数によって刻みがあり、一定の枚数を超えるとお金がかかる。「両替なのにお金がかかるんですか」と驚かれることもある。新札への両替も、同じだ。これから誰かに渡すために改めるお金にも、その改めること自体に、手数料の表は線を引いている。私はその線を指でなぞって示す。

新券に両替する人は、たいてい急いでいない。明日の式のため、来週のお祝いのため、少し先の改まった日のために、前もって来る。だから窓口での所作も、どこか丁寧だ。新札を受け取り、財布ではなく封筒や袱紗にしまう。日常のお金とは別の場所に。

帯封を切るとき、私はいつも思う。新札は、気持ちの形なのだ、と。同じ一万円でも、ぴんと揃った一枚には、これから誰かに渡すという改まりが乗っている。お金は数字だけれど、新札への両替を頼むお客様が窓口で本当に求めているのは、金額ではなく、その改まりのほうなのだろう。今日も誰かが、「新札でお願いします」と言いに来る。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

辛口レビュー →
第二稿(改稿版)→
← シリーズ目次に戻る

このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。