オトナシユウ(49歳・補聴器技能者24年)
補聴器の仕事を二十四年続けている。仕事は三つだ。聴力を測ること、その人に合う機械を選んで耳に合わせること、そして合わせ続けること。最後のひとつに、いちばん時間がかかる。一回では終わらない。終わらせてはいけない、とも言える。
入った年のことを、よく思い出す。二〇〇二年、二十五歳の春に、私はこの販売店の戸を開けた。最初に覚えたのが、オージオグラムという紙の読み方だった。横軸に周波数、縦軸に音の大きさ。聞こえる最小の音をひとつずつ点で打って、線でつなぐ。低い音から高い音へと並べていくと、年を重ねた人の線は、右へ行くほど下に垂れていく。高い音から先に落ちていく、それが加齢の聞こえの形なのだと、最初の週に教わった。
あれは入って三ヶ月目だったと思う。先輩がオージオグラムを一枚、指で叩いてこう言った。「聴力図は地図だ。だが地図を渡しても人は歩けない。歩き方まで合わせるのがうちの仕事だ」。当時の私は、その意味がよく分からなかった。地図があれば道は分かる。道が分かれば歩けるはずだ、と。
分からなかったことは、自分が初めて補聴器を耳に入れたときに分かった。研修で、自分の耳に機械を着けてみたのだ。私の聴力は当時ほとんど落ちていなかったから、増幅はわずかなはずだった。それでも、世界が一変した。まず、自分の声が頭の中で響いた。ぼわん、と内側からこもる。次に、店の奥の冷蔵庫が、ぶうん、と一日中うなっているのに気づいた。今まで私の脳は、その音を「聞かなくていい音」として捨てていたのだ。機械はそれを律儀に拾って返してくる。
つまりこういうことだった。長く聞こえていなかった人の脳は、いくつもの音を忘れている。そこへ補聴器で音を戻すと、脳は忘れていた音を一気に思い出させられて、混乱する。冷蔵庫も、紙をめくる音も、自分の咀嚼の音も、全部うるさい。だから初日に音を最大まで上げてはいけない。低いところから始めて、脳が慣れるのを待ちながら、少しずつ上げていく。私たちはそれを音の階段と呼んでいた。一段ずつ、数週間かけてのぼる。これが「歩き方を合わせる」ということだった。
調整の通いが始まると、家族の話を聞くことが増える。あるとき、娘さんに付き添われて来たお父さんがいた。娘さんは少し怒っていた。「もう聞こえてるはずなのに、呼んでも返事しないんです」。私は、聞こえと聞き取りは違うのだと説明した。音が耳に届くことと、その音が言葉として分かることは、別の作業なのだと。機械は音を大きくできるが、雑踏の中から名前だけを拾い出す力は、戻すのに時間がかかる。娘さんは、ふうん、という顔をしていた。たぶん半分も伝わっていなかったと思う。
いちばん難しいのは、外したがる人だ。せっかく合わせた機械を、引き出しの奥にしまってしまう。理由を訊くと、たいてい言葉を濁される。うるさい、面倒、年寄りに見える。本当の理由は、たぶんもっと奥にある。私は無理に着けさせない。引き出しの中の機械には、その人なりの理由がある。私にできるのは、出してもいいと思えるところまで、音を合わせ直すことだけだ。
耳型を採る作業は、今でも好きだ。やわらかいシリコンを耳の中に流し込んで、数分、固まるのを待つ。固まったものを抜くと、その人の耳の内側がそのまま型になって出てくる。同じ形はひとつもない。曲がり方も、深さも、人によってまるで違う。聴力図が同じ二人でも、耳の形は違う。だから機械も、ひとつずつ違う形になる。聞こえというのは、つくづく一人ひとり違うものなのだと、シリコンを抜くたびに思う。
あれから二十四年。私はずっと、聴力図の数字と、その人が「聞こえにくい」と言うときの距離を測ってきた。数字は地図にすぎない。地図と本人のあいだには、いつも距離がある。その距離に寄り添って、歩き方を合わせていく。聞こえの距離を測り続けたこの仕事が、私をいまの私にしてくれたのだと思う。今日も検査室の椅子で、私は誰かの聞こえの地図を、静かに広げている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。