タカハシセイイチ(家計アドバイザー)/『お金のことば、家に入る — 家計アドバイザーの、十の夜』#4
生成日: 2026-05-01
お盆の帰省を終えて自宅に戻り、家族はもう寝ていた。リビングのソファでスマートフォンを充電しながら、まだ車の運転の感覚が手のひらに残っていた。23時48分、画面に弟の名前が出た。実家を出る前にも「気をつけて」と言って別れた相手である。一拍迷ってから出た。「兄ちゃん、ちょっと相談が」。
弟の声——電話の向こうの声は普段より少し高くて、語尾が早かった。背景に車の走る音はなく、家のどこかにいるのが分かった。「200万、貸してくれないか。半年後には必ず返す」。そう言ったあと、弟は一度小さく咳払いをした。咳払いの直後の沈黙が、こちらの想像より長かった。私はその沈黙の長さで、弟が今夜この電話をかけるまでに、何度かやめようとしたことを察した。
仕事の口が開きかける——家計アドバイザーとして、私は客に同じ相談を受けたら答える内容が決まっている。「家族間融資は必ず金銭消費貸借契約書を作成、利息は最低でも法定金利相当を設定、贈与税認定の予防、貸し倒れたときの関係破綻の予防」。客に対しては数十回ぶん、口が滑らかに動く。電話を耳に当てたまま、私はその一節が喉のあたりに来ているのを感じた。
「契約書」を切り出した瞬間に起こること——切り出すのは簡単だ。「分かった。ただ、書面は作ろう」と言えばいい。書面という語が出た瞬間、向こうの電話で何かが小さく下がる。弟は深夜に、家族の番号にかけてきている。客の番号にかけたわけではない。書面と利息は、客の側にしか存在しない取り決めで、家族の側にはない。書面の話をするということは、弟の電話を、家族の電話から客の電話に並べ替える作業になる。
家業の話——弟の印刷業は、ここ数年、地方の取引先の廃業と、紙媒体そのものの縮小で、売上が前年比で落ち続けている。お盆の昼、義妹が「来月の支払い、ちょっと」と私の妻にこぼしていたのが耳に入っていた。弟は私には言わなかった。私が家計アドバイザーであるから、言えなかったのだろうと思う。今夜、深夜になってから電話してきたのは、昼間の私には言えなかったからだ。
結局、何を言ったか——私は「分かった、考える」と言ったか、「分かった、なんとかする」と言ったか、電話を切ったあと自分で思い出せなかった。客の面談なら、自分の発話はあとでメモに残せる。職業の口は、自分が何を言ったかを、自分で記録する習慣を持っている。家族の電話には、その記録の習慣が働かなかった。発話はその場で出ていって、戻ってこなかった。
半年後——電話を切ってから気づいた。私は「半年後に返す」を信じている。職業の側からは、信じてはいけない数字だ。家業の売上が落ちている人間が半年で200万を作る蓋然性を、私はこの仕事で何度も低く見積もってきた。客に対しては低く見積もる。弟に対しては、高く見積もる、というよりも、見積もりという作業をしない。同じ自分の中に、見積もる口と、見積もらない口が、別々の理屈で動いている。
降りた——リビングは暗いままで、エアコンの送風だけが小さく回っていた。私は今夜、職業判断を一回降りた。降りたと気づいたのは、判断の最中ではなく、電話を切って、ソファに体重を預け直してからだった。判断の最中には、自分が何かを降りていることが見えない。降りたあとの沈黙のなかで、降りたことが分かる。観察者でいるあいだは、自分が観察者だと知っている。観察者を降りた瞬間は、自分でも観察できない。
自己反省——書きながら気づくが、私はこの一夜の出来事を、すでに観察の言葉で書こうとしている。「降りた」「見積もらない口」と書いている時点で、私は降りた瞬間を、戻ってきた観察者の側から再記述している。本当に降りていたのは、電話を切って、ソファでしばらく天井を見ていた数分の方で、そこには記述に使える語が、まだ生えていなかった。
翌朝、妻に弟の電話のことを伝えるか、伝えないか、まだ決めていない。冷蔵庫の前を通るとき、磁石に挟まったままの残高通知の角が、五月のままで折れていた。私は冷蔵庫の前で一度立ち止まり、そのまま寝室に向かった。
——補記:この第一稿は公開後に辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。3稿を並置しています。