時化の、浜
海が出してくれない日のこと

オウミナギサ(27歳・海女7年)

海女の仕事は、自分で休みを決められない。出られるかどうかは、朝、浜に立って海を見て決まる。荒れ狂う海を前にすると、人間がいかに小さいかを思い知らされる。自然の偉大さの前で、私たちはただ頭を下げるしかない。今日は、そういう時化の日のことを書こうと思う。

朝、まだ暗いうちに浜へ出る。海を見る。波が高いか、水が濁っているか、風がどっちから吹いているか。この三つを見て、今日は出られるか出られないかを決める。長くやっている人ほど、見ただけでわかるらしい。私はまだ、迷う日がある。スミさんは浜に立って一目見て、もう小屋のほうへ歩き出していたりする。

出られない日でも、浜には仕事がある。磯メガネのゴムが傷んでいないか確かめて、曇り止めを塗り直す。網袋の破れを繕う。糸を通して、結んで、また通して。指先の作業だ。海女小屋の薪も補充しておく。次に入る日、冷えた体を温めるための火が、薪なしでは焚けないからだ。手を動かしていると、出られない一日も、案外みじかい。

若い人ほど、出たがる。荒れていても、行けると思ってしまう。獲れ高がそのまま暮らしに響くから、一日でも惜しいのだ。その気持ちはよくわかる。けれど年寄りは止める。「今日はやめとけ」。スミさんのその一言は重い。事故は、たいてい欲が呼ぶのだと、長くやっている人は知っている。海は、欲を出した人から順に連れていく。

時化が明けても、すぐには入れない。海の中はまだ濁っていて、何も見えないことがある。濁りが落ち着くまで、二日、三日とかかる。私たちの漁は、見ることがすべてだ。岩の陰のアワビの殻のふちを見分ける漁だから、水が澄まないことには話にならない。海が静かになったからといって、海が私たちを迎え入れてくれたわけではない。

時化は、いいものも運んでくる。荒れた海は海藻を引きはがして、浜に打ち上げる。時化明けの浜には、海藻の山ができていることがある。ワカメやアラメが、波の届かないところまで積もっている。海は、奪うだけではない。荒れた分だけ、別の形で返してくれるものもあるのだと、浜を見ていると思う。

正直に言えば、時化が続く月は、家計が苦しい。私たちの収入は、獲れ高にそのまま直結する。出られない日が重なれば、その分だけ入ってこない。海女の収入には波がある。獲れる月とそうでない月の差が大きくて、貯めておかないと、時化の長い月を越せない。これは、海に暮らしを預けるということの、いちばん現実的なところだ。

出られない日、私は浜で海を見ている。ただ待っているのとは少し違う。明日は出られそうか、濁りはいつ落ち着きそうか、海を読みながら待っている。獲れ高の記録もつける。どの日にどこで何枚、潮はどうだったか。時化の日は、その記録を見返す日でもある。待つ時間は、暇な時間ではない。海を読むための時間だ。

七年やってきて、わかったことがある。海の機嫌に従うのが、海女なのだ。出たい日に出られず、出られる日に出る。その不自由を受け入れたとき、はじめて海と長くつきあっていける。時化の浜で海を見ながら、私はいつもそう思う。海は、私たちの都合では動かない。だから私たちが、海の都合に合わせるのだ。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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