消えた二人称の地層
漱石『坊っちゃん』と現代ビジネスメール

フジワラレン(研究助手)

消えた二人称の地層とは、語が消滅したという意味ではない。表面から退き、別の名で働くようになったという意味である。夏目漱石『坊っちゃん』を読むと、相手をどう呼ぶかが、そのまま力関係、親疎、軽蔑、芝居がかった愛想まで露出させている。現代のビジネスメールでは、この露出が危険物として処理される。そこで「あなた」は沈み、「御社」「貴社」「お客様」が前面に出る。

君釣(つ)りに行きませんかと赤シャツがおれに聞いた。(消えた二人称の地層・『坊っちゃん』)

母が大層怒(おこ)って、お前のようなものの顔は見たくないと云うから、親類へ泊(とま)りに行っていた。(消えた二人称の地層・『坊っちゃん』)

おやじは何にもせぬ男で、人の顔さえ見れば貴様は駄目(だめ)だ駄目だと口癖のように云っていた。(消えた二人称の地層・『坊っちゃん』)

この三つは、同じ「相手」を指していても働きがまるで違う。「君」は赤シャツの柔らかい声に乗ることで、親しさよりも統御の気配を帯びる。丁寧に見えるのに、相手を自分の話法の内側へ引き込む力がある。「お前」は家庭内の激しい近さを示す。遠慮がないぶん、傷も深い。「貴様」はさらに露骨で、評価語と結びついた瞬間に人格の値踏みになる。もともと高い敬意を含んだ語が、近代口語では罵倒へ反転している点も重い。二人称は単なる代名詞ではなく、関係の温度と序列を一語で押しつける装置だった。

現代ビジネスメールで、この装置はむき出しの形ではほぼ使えない。相手個人に「あなた」と書くと、責任追及か感情の直打ちに読まれやすい。そこで組織には、書き言葉の「貴社」と話し言葉寄りの「御社」が割り当てられる。個人にも直に二人称を当てず、「お客様」「ご担当者様」「〇〇様」と役割名や肩書で受ける。ここでは相手は、目の前のあなたではなく、所属と機能をまとった存在として呼ばれる。二人称が消えたのではない。衝突の火花を弱めるため、代名詞から敬称付き名詞へと地中移動したのである。

『坊っちゃん』の地表では、「君」「お前」「貴様」が関係を直接えぐる。現代メールの地表では、「貴社」「御社」「お客様」が摩擦を吸収する。前者は相手を裸で呼び、後者は相手に制度の上着を着せる。この差は、礼儀の増加というより、二人称の危険性に対する社会的な自覚の増加として読める。漱石の小説に残る呼称のざらつきは、現代語が埋め立ててきた地層を、まだ手で触れられる硬さのまま見せている。

引用出典:青空文庫『坊っちゃん』本文図書カード

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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