タケウチソウタ(高校生)
毎年冬になると、母が同窓会の近況ハガキを食卓に並べる。結婚しました、転勤しました、子どもが生まれました。短い文なのに、どれもちゃんとした人生に見える。でも、あの小さな紙に入るのは、起きた出来事の輪郭だけだ。角の丸い報告文の外側に、書かれない時間がたくさん残る。その残り方に、むしろその人の今が出る。
たとえば「元気でやっています」は、便利すぎる一文だ。病院に行くほどではないがずっと眠いこと、職場や学校で名前を呼ばれる前に一回だけ息を整える癖がついたこと、家族に心配をかけないよう返信の速度だけ速くしたこと。そういう細い現実を、あの一文は静かに飲み込む。読んだ側は安心できるし、書いた側も説明しなくて済む。だから残る。残るけれど、残るからこそ、何を隠したのかまでうっすら見えてしまう。
近況報告は、事実を書くというより、公開しても大丈夫な形に直す作業に近い。退職した、ではなく一区切りついた。別れた、ではなく生活が変わった。何も進んでいない数年は、書ける名詞が見つからない。すると人は、変化ではなく姿勢を書く。「忙しいですが元気です」「毎日充実しています」。その文は嘘ではないはずなのに、読んだあとに具体物が一つも手に残らない。たぶんそこに、近況ハガキのいちばん正直なところがある。
「元気でやっています」
訳すと、今日も一日分はこなしました。会ってすぐ話せる明るい話題は少ないです。けれど、連絡が取れなくなるほどではありません。
高校生の自分には、まだ同窓会に出す側の事情はない。でも、すでに似たことはしている。久しぶりの友達に「普通だよ」と返すとき、普通の中には、テストの点だけでは決まらない焦りや、仲のいいふりをして通り過ぎた昼休みや、家では言わない進路の迷いが入っている。つまり省略は大人だけの技術じゃない。人は、相手との距離に合わせて、自分の生活から先に切り取る。はみ出した部分は、なくなったのではなく、見せないまま持っている。
だから近況ハガキを読んで、順調そうでいいな、と単純には言い切れない。そこにあるのは成功の一覧ではなく、ぎりぎり他人に渡せる形まで整えた報告だからだ。明るい文面の裏に苦労がある、という話だけでもない。逆に、本人にとってはかなり大きな達成でも、説明が面倒で一行に縮むこともある。人生の重さと文字数は釣り合わない。紙面の小ささは、遠慮や見栄だけでなく、伝わらなさへの諦めまで含んでいる。
同窓会の近況報告で読めるのは、その人の現状そのものではなく、現状をどの厚さで包むことにしたか、という判断だ。そこを見ると、少しだけ文章が立体になる。にぎやかな報告の中で、あえて短い人が気になるのは、情報が少ないからではない。少なさの決め方に、その人の現在地がにじむからだ。ハガキに並ぶ定型文は、みんな同じ顔をしているのに、削られた部分の形だけは、それぞれかなり違う。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。