サイトウアヤ(求人広告観察者)
二十四歳のサイトウが、求人広告代理店に入社して三ヶ月が過ぎた頃。初めて一人で担当する案件は、東京下町の小さな製造業の求人だった。
社長室に通されたサイトウは、ぎこちなく椅子に座った。工場は古い機械油の匂いが立ち込め、溶接の火花が散る傍らで、職人たちは無言で手を動かしていた。耳をつんざくようなプレス機の音が響く。そこから一転、社長室は静かで、磨かれた机が鈍く光る。社長は言った。「うちはアットホームな職場でね。家族みたいに仕事してるんだよ」。その言葉を、面談中、サイトウは十回以上聞いた。手元のノートには、「アットホーム」とだけ走り書きされた。
会社に戻ったサイトウは、与えられた席で原稿用紙に向かった。「アットホーム」という言葉を、彼女は懸命に解釈しようとした。互いを気遣い、仕事以外でも支え合う関係性、そういったものだと。見出しは「アットホームな職場で、あなたの個性を活かせます」と、社長の言葉をそのまま踏襲した。本文にも、社長の熱意を込めて書き上げた。上司は「いいね、社長さんの声がそのまま伝わる」と承認した。サイトウは胸の奥に、説明のつかない奇妙なざらつきを覚えた。自分の言葉ではないものを、自分の発見のように綴る違和感だった。それでも彼女は、そのまま原稿を提出した。
求人は出稿され、数件の応募があったと聞いた。サイトウは、あの工場で働く人々が、社長の言う「アットホーム」の中でどう生きるのか、それ以上考えなかった。原稿を書き、掲載に導くことが、当時の彼女の仕事の全てだった。
十年が過ぎた。サイトウはもう、あの代理店にはいない。ある日、別の会社の求人広告を眺めていた時、ふと目が止まった。どの広告も、決まり文句のように「アットホームな職場」を謳っている。その文字列が、十年前の、あの油の匂いとプレス機の音を伴った記憶を呼び起こした。当時のサイトウは、あの工場で何を見ていたのか。言葉の表層だけを撫でていた自分を、彼女ははっきりと認識した。
机の引き出しを開け、奥から一枚の紙を取り出した。十年前、二十四歳のサイトウが書いた求人広告のコピーだった。インクは色褪せ、紙の端は擦り切れている。そこに書かれていたのは、あの社長が語った言葉を、そのままなぞった文章だった。
アットホームな職場で、あなたの個性を活かせます
まるで時間を飛び越え、当時の社長の声が聞こえてくるようだ。一つ一つの言葉が、十年前と同じ場所に、生々しく生きていた。それが何を意味するのか、サイトウはまだ整理しきれない。ただ、あの時の言葉と、目の前の現実の間に、決定的な隔たりがあると感じた。
サイトウはコピーを読み終え、それをゴミ箱に入れることなく、再び引き出しの奥へと静かに仕舞い込んだ。あの紙は、言葉の持つ表層と、その奥に隠された現実との距離を、今も問い続けている。