図の説明を、読む(第二稿)
音訳一年目、声に何も乗せないと決めるまで

サカキマホ(38歳・点字図書館の音訳者15年)

本を声にする仕事を、十五年している。録音の前に、エアコンを切る。椅子の軋みを確かめる。隣のブースの唸りが入っていないか、十秒録って聴き返す。本文を間違えずに読むのは、半年でできるようになった。難所はそこではなかった。

難所は図だった。本には棒グラフがあり、地図があり、写真があり、表がある。墨字なら目が一瞬で捉えるそれを、声で渡す。文字でないところを、文字で読む。音訳のいちばん難しい仕事が、文字の外にあるとは、始めるまで知らなかった。

一年目の秋、最初に詰まったのは風景写真だった。山、湖、雲。私はマイクに向かって言いかけた。「美しい山の写真です」。言いかけて、止めた。美しい、と決めたのは私だ。それを聴く人は、まだ何も見ていない。

その晩、先輩の音訳したデイジー図書を聴いた。デイジーは録音図書の規格で、音声を見出しや図で構造化してある。似た風景写真の箇所で、先輩はこう読んでいた。「写真。画面の下半分に、湖。水面に山が映っている。中央に、雪の残る山。山頂は雲に隠れている」。下から上へ、手前から奥へ。形容詞は一つもない。それなのに、奥行きが順に積み上がって、頭の中に山が立った。美しいかどうかは、最後まで私に委ねられていた。

図表には決まりがある。グラフなら、何のグラフか、軸、目盛りの単位、それから値。ある報告書で、私は人数の棒グラフを読んだ。「図1。棒グラフ。横軸は年度。縦軸は人数、単位は人。二〇〇五年、二百十人。二〇〇六年、百九十五人」。二百十が百九十五に落ちる、その一語の前で、喉が勝手に沈もうとした。減った、と声で言いそうになった。私は息を一つ入れて、ただ「百九十五人」と置いた。減ったと聴く人が決めればいい。私の喉が決めることではない。

固有名詞の読みは勝手に決められない。著者名の音が割れたとき、私はNHKのアクセント辞典を引き、それでも載っていなければ図書館を通じて版元に問い合わせる。決まるまで録らない。音訳は、わからないところを雰囲気で埋めない仕事だ。図の説明も同じで、原本に方角の記載がなければ、「手前」とは読まない。「手前」は私が立った場所だからだ。

私の最初の風景写真の音訳には、校正で指摘が入った。音訳には校正者がいて、原本と音声を突き合わせて聴く。「『手前に』は主観的な位置。原本に方角の記載がなければ『画面下部』に」。私が無意識に立っていた場所を、校正者は聞き分けていた。声に乗ってしまった私を、別の耳が一つずつ降ろしていった。

十五年で読んだ図は数え切れない。喜びそうな箇所で喜ばず、悲しそうな箇所で声を落とさない。込めるのは易しかった。難しいのは、自分がどこで込めたくなるかを、毎回ひとつずつ知ることのほうだ。二百十が百九十五に落ちる、あの一語の前で、私はいまも一度、息を入れる。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。第一稿への辛口レビューを経て書き直した第二稿です。