サカキマホ(38歳・点字図書館の音訳者15年)
録音ブースは、静かであるように作られている。けれど、完全な無音という場所ではない。窓のない小部屋に座って、息を整えていると、それでもいろいろな音が入ってくる。ページをめくる音、唾を飲む音、遠くを過ぎていく救急車。私はその一つひとつを、録るか録り直すか、毎回決めている。本を声にする仕事を、十五年続けてきた。
録り直しの基準は、一応ある。内容の聞き取りに支障があるかどうか。その音のせいで、聴く人が文字を取り違えるなら、録り直す。取り違えないなら、残す。基準そのものは、新人のころから変わっていない。変わったのは、私の耳のほうだった。
ページをめくる音を立てないために、私には癖がある。読み終わる一行手前で、次のページの右下を、指の腹でそっと浮かせておく。紙の角を、爪ではなく、指の腹で。読み終えた瞬間、めくる動作は半分すでに済んでいて、音は出ない。この指づかいを覚えるのに、何年もかかった。いまでは、考えなくても指が先に動いている。
マイクの前には、ポップガードという黒い円い膜が立ててある。破裂音の風を、聴く人に届く前に受け止める網だ。「ぱ」や「ぴ」を読むとき、唇から出る息が、膜に当たって、消える。私はその膜越しに、原本を読む。膜が一枚あるだけで、声は少しだけ、私から離れて、誰かのものになる気がした。
困るのは、自分の体から出る音だ。夏、エアコンを切ったブースで、長い章を読み続けていると、お腹が鳴る。空調の唸りが入るから、録音中はエアコンを切る。だから夏のブースは暑くて、汗ばんで、そして、お腹が鳴る。これは内容の聞き取りに支障はない。けれど私は、自分の腹の音が許せなくて、その段落を、何度も録り直してしまう。
録り直した箇所は、編集ソフトの波形の上で、元の音声に差し替える。腹の鳴った一秒を選んで、録り直した一秒に置き換える。波形は、声のないところで一本の細い線になり、声のあるところで山になる。私はその山と線を見ながら、耳では聞こえないほどの、ほんの小さな雑音まで、目で探してしまう。十五年で、耳が過敏になった。聴く人にはきっと聞こえない音を、私だけが気にして、消している。
それでも、校正者の耳は、私の耳より上をいく。録音を終えたあと、指摘票が回ってきた。「七十三頁、紙の音」。たった六文字。私が聞き逃した、ページをめくる音が、そこに残っていた。あれだけ指の腹を使ったのに。私は顔が熱くなって、その箇所を、もう一度だけ録り直した。プロの耳に、紙の音を拾われる恥ずかしさは、十五年やっても慣れない。
けれど、すべての音を消すわけではない。息継ぎの音は、残す。完全に無音にしてしまうと、声は不自然になり、機械の読み上げに近づいてしまう。文と文のあいだの、小さな息。私はその息を、わざと波形に残しておく。ここで、人が、息を吸って、読んでいる。その証拠を、私は消さない。
近ごろは、機械の合成音声で本を聴く人も増えた。速くて、疲れない。読み間違えもしない。それでも、人の声の音訳が残っているのは、たぶん、この不完全さのおかげなのだと思う。腹が鳴り、紙が鳴り、息を継ぐ。その不完全さこそが、人の声にしか宿らない価値なのだ。録り直すか、残すか。私はその境目に立ち続けて、私を音訳者にしてくれたのは、この迷いそのものだったのだと、いまは思う。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。