サコミズトオル(48歳・地下鉄の軌道保守26年)
終電が車庫に帰り、始発が出るまでの数時間。乗客を一人も乗せない車両が、地下を走る。保守用車だ。モーターカーとも呼ぶ。レールを積み、砕石を積み、削正機を引いて、夜の線路を行き来する。眠っている人を運ぶ列車が止まっている間、私たちは荷を運ぶ車に乗って、同じトンネルを走っている。
構内の制限速度は時速二十五キロと決まっている。営業列車が六十、七十で抜ける区間を、その四分の一で這う。運転台は狭い。床から来る振動が、薄い座面を通して尻に直に届く。レール継目を渡るたび、ガタン、と一拍。営業列車なら子守唄に紛れる音が、この速さでは一つひとつ数えられる。私は無意識に数えている。継目の数は、走った距離だからだ。
運転には資格がいる。動力車操縦の訓練を受け、構内運転の手続きを覚えて、入って何年も経ってから、ようやくハンドルを握らせてもらえた。営業列車の運転士とは別系統の資格だ。だが深夜のトンネルを地下に下りて運転しているのは、運転士ではなく、私のような保守の人間だ。前に一人、後ろに一人、合わせて三人。誰も眠っていない。
ヘッドライトが照らすぶんだけ、壁が見える。コンクリートの継ぎ目、ケーブルの束、壁に書かれたキロ程の白い数字。それらが光の輪に入ってきて、後ろへ流れる。私は鑑賞しているのではない。剥がれたコンクリート片はないか、新しい漏水の筋はないか、線路上に支障物はないか——光の輪が、目で歩く点検になっている。時速二十五キロは、壁を見るのにちょうどいい速さでもある。昼の乗客が見る、流れて消える線の連なりとは、見ているものが違う。
資材を下ろす駅間は決まっている。新しいレールを下ろす場所、古い砕石を積む場所。車を停め、車載のクレーンでレールを吊る。定尺レール一本で二十五メートル、一トン近い。クレーンで吊っても、所定の位置に下ろすときは人の手がいる。四人で枕木の間隔に合わせ、声を合わせて方向を決める。下ろし終えるまで、保守用車はエンジンをかけたまま停まっている。排気がトンネルにこもって、目にしみる。積み終われば、また次の区間へ、二十五キロで進む。
作業区間の前後には、見張りを立てる。合図灯を持った者が前と後ろに立つ。緑は進め、赤は止まれ。トンネルの闇で、色を持っているのはその灯りだけだ。運転台から見ると、前方の暗がりに、緑の点が一つ。あれが前方の見張りだ。その光が赤に変われば、私はブレーキに手をかける。光は情緒ではなく、合図だ。緑が消えれば私の手は止まる。光と私の手は、一本の線でつながっている。
駅を通るときが、いちばん変わっている。営業列車は駅を通過する。保守用車は素通りする。ホームの灯りだけがついて、人は一人もいない。蛍光灯が白く照らすホームが、時速二十五キロで窓の外を過ぎる。昼に何百人も立った場所が、夜は誰もいない。広い。点字ブロックの黄色が、誰の足にも踏まれずに、端から端まで通っている。それを私は、ホームの高さではなく、ホームより低いトンネルの中から、下から見上げて通り過ぎる。昼の乗客が立って見る駅とは、見る高さも、見る角度も違う。
作業を終え、車庫へ戻る。回送だ。荷は下ろし、機械はしまった。だが運転台では、まだ仕事が続いている。次の停止位置を頭で追い、継目の振動を尻で数え、後ろの台車に班の者が乗っているのを背中で知っている。世界に一人ではない。三人で、二十五キロで、地下を戻る。やがて車庫の入庫線に入り、所定の位置に車を停める。エンジンを切る。振動が消える。継目を数えていた尻が、止まったことに少し遅れて気づく。今夜もまた、送電が落ちるのを待って、私は保守用車の運転台に乗り込む。下から見上げる無人の駅を、いくつも通り過ぎるために。