漱石『三四郎』の汽車と現代の新幹線
移動の記述、目的のない時間

ワタナベ(65歳・元会社員)

現役のころ、出張で東海道新幹線にずいぶん乗った。東京駅で弁当を買い、品川を過ぎるころにはもうノートを開き、新横浜あたりでメールを返し、名古屋の手前では先方への到着連絡を考える。車内は速く、明るく、正確で、実に立派である。ただ、立派すぎて、移動の途中に身を預ける余白がない。乗る前から乗換案内が時間を切り分け、乗ってからも到着予告が先回りする。こちらの気分より先に、次の行動が決まってしまう。

女の色が次第に白くなるので何時(いつ)の間(ま)にか故郷を遠退(の)く様な憐れを感じてゐた。(漱石『三四郎』の汽車と現代の新幹線・作品タイトル)

『三四郎』の冒頭を読むと、汽車は単なる輸送手段ではない。九州から京大坂へ近づくにつれて、窓の外ではなく、女の肌の色の見え方にまで土地の変化が映る。移動とは、地図の上で点から点へ進むことではなく、身体の感覚がじわじわと組み替わることだったのだ。故郷を離れる実感が、速度や分数ではなく、同乗者の顔色ににじむ。この遅さがよい。遅いから、景色でなく気配が読める。気配が読めるから、行先より先に、自分の位置が揺らぎ始める。

新幹線では、そこがずいぶん違う。車窓は流れ、車内は静かで、座席も整っているが、移動の実感は案外薄い。東京から新大阪まで二時間半ほどで着くとなれば、途中は「処理すべき空き時間」になりやすい。スマートフォンを開けば、乗換、出口、在来線ホーム、遅延情報まで一列に並ぶ。便利になった代わりに、途中でぼんやり取り残される場面が消えた。

口(くち)を利いてゐるものは誰(だれ)もない。汽車丈が凄じい音(おと)を立てゝ行く。(漱石『三四郎』の汽車と現代の新幹線・作品タイトル)

この一文にも、いま失われた時間がある。誰も話していないのに、時間は空白ではない。汽車の音だけが充満し、その音のなかで三四郎は眠る。することがないから退屈なのではなく、することがないまま感覚がほどけていく。私はここに、移動中の人間らしさを見る。目的地へ急ぐ身体にも、まだ名前のつかない時間が付いていたのである。

現代の新幹線には、音のかわりに案内がある。何号車、何番線、何分遅れ、次はどこ、出口はどちら。あれは親切だが、親切が過ぎると、途中の時間は管理項目になる。移動の最中に自分が少し曖昧になる、その曖昧さが旅から削られた。『三四郎』の汽車は不便で遅い。しかし、遅いからこそ、人はまだ目的地の手前で宙づりになれた。新幹線は私たちを早く運ぶ。そのかわり、着く前にもう着いているような気分を作ってしまう。そこに、現代の移動の寂しさがある。

引用確認元:青空文庫『三四郎』 https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card794.html / 本文URL https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/58842_76759.html

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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