就学援助の、封筒
事務室は、知った上で知らない顔をする

ササモリチエ(48歳・学校事務26年)

年度の初め、就学援助のお知らせを全家庭に配る。給食費や学用品費の補助です、という案内を、一年生から六年生まで、すべての子どものランドセルに入れる。誰が必要としているか分からないように、必要としていない家にも配る。窓の外には四月のやわらかな光が差していて、事務室には謄写の紙とインクの匂いが静かに満ちていた。私はその紙を数えながら、いつも少しだけ、胸が痛むような気がしてしまうのだ。

申請があると、認定通知が届く。それは他の配布物とは扱いが違う。学級だよりや集金のお知らせは、教室で一斉に配る。けれど認定通知は、封筒に入れる。封をして、宛名を伏せて、該当する家の子にだけ、目立たないように渡す。担任にも「この子に渡してください」とだけ言って、中身は言わない。封筒は、見えないようにするための道具だ。

事務室は、家庭の経済状況を書類で知る場所である。給食費の口座振替が不能になれば、銀行から通知が来る。残高不足。その三文字が、何を意味するかを私は知っている。集金袋がいつも遅れがちな家がある。修学旅行の積立を、分割でいいですかと窓口で小さな声で訊く家がある。私はそれを全部、書類の上で知っている。知った上で、知らない顔をする。

就学援助の名簿と、集金袋が遅れがちな家の名前は、たいてい重なる。けれど私はそのことを、誰にも言わない。職員室で「あの家は」という話になりかけると、私はそっと席を立つ。事務室で知ったことは、事務室の鍵のかかる引き出しに置いていく。それが、二十六年かけて身につけた、いちばん大事な仕事なのかもしれない。

教材費の未納が続くと、督促の文書を書く。これがいちばん神経を使う。冷たく書けば家を追い詰める。甘く書けば事務にならない。私は「お忘れではないでしょうか」と書く。「お支払いください」ではなく。同じことを言っているのに、言葉の選び方ひとつで、受け取る人の背中の丸まり方が変わるのだと思う。封筒の窓から覗く宛名の文字さえ、私はできるだけやさしい書体で打つ。

修学旅行の積立は、毎月少しずつ集める。一括では重いから、四月から分けて積み立てる。卒業アルバム代も同じだ。学校のお金の事務は、いつも子どもの背中越しに、家庭を見る仕事だった。子どもは無邪気に集金袋を持ってくる。その袋の重さの後ろに、夜なべの家計があることを、子どもは知らない。私は知っている。けれど私は、その子に向かって、いつもと同じ顔で「はい、たしかに」と言う。

年度末、精算をする。給食の実施日数が予定より少なければ、集めすぎた分を返す。数十円のこともある。その数十円を、私はきちんと封筒に入れて返す。たかが数十円、と思う人もいるだろう。けれど就学援助の家にとって、その数十円が持つ意味を、私は書類の上で知っている。だからこそ、一円も狂わせない。それが私にできる、せめてものことなのだ。

二十六年、私は封筒に入れてきた。見えないように、目立たないように、知らない顔で。事務室は学校の隅の、いちばん地味な部屋だ。けれど、ここで知ったことを誰にも言わずに引き出しにしまっておくこと——知らない顔をする技術こそが、事務の優しさなのだと、いまでは思う。封筒は、子どもの尊厳を守るための、いちばん静かな道具なのだ。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。