ササヅカリン(35歳・真珠の核入れ士12年)
核入れは数十秒の仕事だが、その数十秒に耐える貝を育てるには三年かかる。私はいま、年の大半をその三年のほうに使っている。海は、貝を肥やしもするし、一晩で殺しもする。育てるというより、殺されないように見張っている、と言ったほうが近い。
稚貝は最初、爪の先ほどしかない。細かい採苗籠から、目の粗い籠へ、貝の育ちに合わせて移し替える。三年で核を入れられる体になるかどうかは、この移し替えと掃除でほぼ決まる。私は核入れの手を売る職人のはずだったが、いまは年のうち十一か月、籠を引き上げては下ろす人間だ。
いちばん手のかかるのは、籠の掃除だ。沈めた籠は付着物で重くなる。鎌で落ちる小さいフジツボはまだいい。手こずるのは大粒の連中で、刃が根に立たず、籠の網ごと持っていかれそうになる。海藻は夏に茶色く伸び、籠の重りになった貝——付着して動かなくなった連中——を巻き込んで垂れる。削いだ殻は手元にざらざら落ちて、爪の間に残る。冬でも素手だ。手袋では蝶番のあたりの身の張りが読めない。
掃除のついでに身入りを見る。貝を持って重さを量り、蝶番の脇を押して身の張りを確かめる。痩せた貝は核を吐く。よく肥えて厚い貝は、大きい核を抱える。来春どの貝に手を入れられるか、私はこの掃除の手のなかで一枚ずつ覚えていく。掃除と見極めは別の作業ではない。同じ手の、同じ往復だ。
赤潮の警報が出た夏があった。湾が赤茶け、酸素が落ちる。私は四号筏の籠を深く沈める手を止めて、湾の外へ逃がすほうを選んだ。沈めれば赤潮の層はかわせるが、その日の潮で層が下まで降りていれば、深い貝から死ぬ。私は外へ曳いた。三日後に戻すと、籠の貝はほとんど生きていた。深く沈めた隣の養殖場は、底の段をだいぶ死なせたと聞いた。どちらが正解だったかは、いまでも分からない。あの朝、私はそう決めた。それだけだ。
台風の前は、風が出る前にすべてを終える。浮きの間隔を詰め、ロープを締め直し、錨を足し、籠を波の届かない深さまで下ろす。過ぎたあと、私が最初に見るのは浮きの並びだ。等間隔のまま浮いていれば、筏は流れていない。乱れていれば、夜のうちに何かが切れている。あの夏は、並びがそのままだった。
それでも、斃死の朝はある。引き上げた籠の貝が、口を開けたまま並んでいる。生きた貝は触れば閉じる。閉じない列は、死んだ列だ。私は感覚のなくなった指でその列を数え、作業場に戻って帳面を繰る。水温の記録、餌の記録、赤潮の名残、移し替えの日付。原因が一つに絞れることは少ない。それでも一つずつ消していく。開いたままの貝殻は、来年の籠の沈め方の、最初の一行だ。
昔の核入れ士は、春の数十秒だけを売っていればよかったと聞く。私は籠を引き、フジツボを削り、赤潮の朝に曳く先を決め、斃死の列を数える。それを本来の仕事ではないと、初めは思っていた。いまは思わない——とも言わない。ただ、籠を引いた手で開口器を握ると、その春、私は貝の閉じる力を、前より少しだけ早く読めている。