小学校の学級通信に登場しない子どもの名前
誰の写真が載らないか

アンドウユイ(教務アシスタント)

学級通信を印刷していると、紙面に出てくる子どもの名前には偏りがある。見出しの近くにいる子、笑顔の中心にいる子、発表の言葉をそのまま書き起こしてもらえる子。紙の上では、教室の一週間が明るく整って見える。けれど、配る前の束をそろえながら、そこにいない名前のほうへ視線が引かれる日がある。欠席ではなかった。遅刻でもなかった。ちゃんと教室にいて、連絡帳も出し、給食も食べて、下校の列にもいた子の名前である。

集合写真は、いちばん公平そうな顔をしている。全員が一枚に収まっているのだから、誰も外れていないように見える。だが実際には、列の端で顔が半分だけ見える子がいる。前の子の肩で口元が消える子がいる。まぶしさに目を細めた瞬間だけ切り取られる子がいる。誌面に載るのは「みんな」の写真でも、同じ濃さで写っているわけではない。見えにくさは、欠席の印より静かで、だから見過ごされやすい。

作品紹介はさらに露骨だ。廊下の掲示を前にして、担任は限られた行数の中から数点を選ぶ。色づかいが鮮やかな絵、説明しやすい工作、紙面映えする一言。選ばれた作品に落ち度はない。ただ、選ばれなかった側にも、手を止めた跡や、消して書き直した鉛筆の圧や、提出のぎりぎりまで持ち直そうとした時間がある。通信に載るのは完成品だが、教室に積もるのは過程のほうだ。その量は、掲載欄の幅では測れない。

名前が出ない子には、いくつかの型がある。前へ出るのが遅い子だけではない。何でも一人で済ませてしまう子、手伝いを頼まれる側に回りやすい子、失敗しないので話題になりにくい子も、案外そこにいる。注意された子の名は残るのに、整列でそっと列を詰めた子の名は残らない。騒ぎの輪郭は記事になるが、静かな加勢は記録の外に置かれやすい。

「今週は、係活動をがんばる姿がたくさん見られました」

こういう一文は、たしかに間違っていない。だが、たくさん、の中に回収される名前がある。黒板消しを二本とも整えていた子。欠けた色鉛筆を短い順に並べていた子。学級文庫の破れを黙ってテープで留めた子。その子たちは、ほめ言葉の総量には含まれても、固有名詞の欄まで届かない。文章が丸くまとまるほど、こぼれる輪郭は増える。

教務アシスタントとして校内を回ると、学級通信は記録である前に、教室が自分をどう見せたいかという表紙でもあるとわかる。だからこそ、そこに出ない名前は、偶然の余白では済まない。毎号つづくと、その子は自分の学校生活を、他人が読む紙から学べなくなる。今週の教室に自分がいた証拠が、手元に届く紙のどこにも見当たらない。不在ではなく、薄くされることは、欠けたまま気づかれにくい。

では、全員を均等に載せれば足りるのかというと、そうでもない。名簿順に一言ずつ配るだけでは、別の空疎さが生まれる。必要なのは配分の技術だけではなく、誰がいつも説明を省かれているかに気づく目つきだろう。よく目立つ出来事の外側で、教室を支えている手つきや、うまく言えないまま終わった一日を拾えるかどうか。学級通信は小さな紙片だが、その小ささの中に、教室の見取り図ははっきり出る。配布の朝、折り目のついた紙を机に置かれた子が、自分の一週間をたしかに受け取れるように、その見取り図はもう少し書き換えられてよい。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。