セキネタツヤ(43歳・浄水場運転管理20年)
水質は数値で語れる。濁度、残留塩素、凝集剤の注入率、配水池の水位。私はその数字を基準値の幅に収め続ける。味は最後の確認だ。だが数字には、いつも上流がある。原水濁度の連続計の針は、いま取り込んでいる水の濁りではなく、数日前に上流で起きたことを指している。針は、上流の遅れたコピーだ。
町の人は、水を蛇口から数える。私は川から数える。取水口にかかる原水を、薬で固め、沈め、濾し、消毒して、飲める水にする。同じ一杯を、町の人はひねった先から、私は二十キロ上流から見ている。距離が違う。これは推測ではない。私は年に三、四度、その二十キロを長靴で歩く。
取水口のスクリーンは鉄の格子だ。川のゴミを止める。何が一番引っかかるかで、上流が分かる。流木が増えれば、どこかの斜面が崩れた。空のペットボトルが並べば、上流で雨が出て河原のものを押し流した。先月は田の落水期で、格子に稲わらが薄く張りついた。スクリーンは、上流からの遅れた便りだ。
台風が抜けた翌朝。窓の外は晴れている。だが私は窓を見ない。原水濁度の連続計を見る。雨のピークは前夜だったのに、針はまだ三度のあたりにいる。濁った水は、まだ二十キロ上流にいる。下ってくるのは今日だ。前夜に降った分が、昼に私の取水口へ届く。
九時、針が動いた。三度、八度、二十度。昼前に最大、五十度を超えた。私は注入率を追従させる。基準の凝集剤を、ジャーテストで濁度ごとの適量を確かめながら、平時の二倍まで上げる。多すぎれば薬が残り、少なければ濁りが抜ける。針が上がるのを見て、その都度決める。順序は私が決める。晴れた窓と、五十度の針。両方を見ているのは私だけだ。
秋には落ち葉が来る。上流の森が葉を落とすと、原水にかび臭が混じる。ジェオスミンが数値で出る。表層の水ほど臭う。だから取水を表層から深層へ切り替える。取水弁の角度を、森の一年が決めている。研修で配られた森林の涵養機能の資料には、手入れされた森は雨を一度ためてゆっくり返し、間伐されない森は土を流す、とあった。森が水を整えるのに数十年かかる。
私はあと十三年で定年だ。いま上流に木を植えても、その森が水を整え終えるのは数十年後で、私の運転管理は終わっている。私は十三年、その森は数十年。引き算をすると、私は完成した水を一度も飲まない。だが植えなければ、十三年後にこの席に座る誰かが、五十度の針の前で、二倍では足りない薬を量り続ける。
上流を歩いた帰り、浄水場に戻って、基準の揃った水を一杯、口に含む。濁度〇・〇五度、残留塩素〇・四ミリグラム。何の味もしない。この一杯の手前で、五十度の針は二十キロ上流の前夜の雨を指し、取水弁は森の秋を向いている。私は針を読み、弁を決める。下流で、遅れて届く上流を読んでいる。