水源の、上流
取水口より上で、数日後の私の仕事は決まっている

セキネタツヤ(43歳・浄水場運転管理20年)

水質は数値で語れる。濁度、残留塩素、凝集剤の注入率、配水池の水位。私はその数字を基準値の幅に収め続ける。味は最後の確認だ。けれど数字には、いつも上流がある。私の浄水場に届く前、川がどこを流れてきたか。年に数回、私はその上流を歩いて見に行く。

町の人にとって、水は蛇口から始まる。ひねれば出る。出ない日のことは考えない。けれど私の仕事は、川の水から始まる。取水口にかかる原水を、薬品で固め、沈め、濾し、消毒して、ようやく飲める水にする。同じ一杯の水でも、町の人と私とでは、その水との距離がまるで違うのだろう。

取水口にはスクリーンがある。鉄の格子だ。川から取り込む水の、大きなゴミを止める。流木、ペットボトル、季節になれば落ち葉。スクリーンの汚れ方を見れば、上流で何が起きているか、だいたい見当がつく。私はそれを、川からの手紙のように読む。

原水濁度の連続計は、二十四時間、取水した水の濁りを数字にし続ける。晴れの日は二度か三度。けれど、この数字は上流の出来事の遅延コピーなのだ。上流で雨が降る。山の土が削れる。濁った水が川を下ってくる。私の濁度計が跳ねるのは、雨のピークそのものではなく、それより遅れてやって来る。

台風の翌日。空はもう晴れている。清流のせせらぎが戻ったように見える。だが原水濁度は、雨が止んでからじわじわ上がり、翌日の昼に最大になった。私は前夜のうちに凝集剤の注入率を上げておいた。濁った水ほど、固める薬がたくさんいる。晴れた窓の外と、跳ね上がる計器の数字。両方を同時に見ているのは、たぶん私だけだ。

秋には落ち葉の季節が来る。上流の森が一斉に葉を落とすと、川の色が変わる。腐った葉から溶け出すものが、水に独特の臭いを与える。その時期は取水のしかたを少し調整する。表層を避け、深いところから取る。森の一年が、私の取水弁の角度を決めている。

上流を歩くときは、長靴を履く。研修で配られた森林の涵養機能の資料を、私は何度か読み返した。手入れされた森は、雨を一度ためてゆっくり川に返す。間伐されない暗い森は、土がむき出しになり、雨をそのまま流す。森が水を整えるには、数十年かかるという。植えた人は、その水を飲まないのかもしれない。

私はあと十数年で定年だ。いま手入れされた森の水を私が飲むことはない。けれど、いま誰かが手を入れなければ、私の後の運転管理員が、跳ね上がる濁度計の前で薬を増やし続けることになる。水は、私の時間より長い時間を流れている。

上流を歩いた帰り、浄水場に戻って、私は基準値の揃った水を一杯、口に含む。何の味もしない。何の味もしないこの一杯の手前に、川があり、森があり、誰かの数十年がある。水は、上流から始まる物語なのだ。蛇口の手前に立つ私は、そのいちばん下流で、ただ数字を整えている。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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