電動の、波(第二稿)
この八年で、修理台に乗るものが変わった

セリザワコウ(30歳・自転車店の修理工8年)

入った年、修理台に電動が乗るのは、十台に一台だった。いまは半分だ。数えたわけではない。腰が数えている。朝いちばんに上げる一台が、軽いか重いかで、その日が分かる。

電動は、上げ方が違う。昔のママチャリなら、片手で後ろを持ち上げて、もう片手でスタンドの爪に引っかける。電動はそれができない。バッテリーとモーターのぶん、後ろが沈む。膝を曲げて、腰を落として、両手で抱え込んで上げる。八年前の私の腰は、この上げ方を知らなかった。覚えたのは腰で、頭ではない。

バッテリーが寿命の客に、交換の見積もりを書く。数字を紙に書いて、向きを変えて見せる。客はそれを読んで、黙る。新しいのを一台買う値段と、そう変わらないからだ。先月、見積もりを出した客が一人、それきり来なかった。直さなかったのか、よそで買い替えたのか、私は知らない。伝票だけが、書きかけで残った。

モーターの蓋は、開く。だが中のコネクタは樹脂で封されていて、テスターの先が入らない。基板にはメーカーのシールが貼ってあって、剥がせば保証が切れる。だから「ここから先はメーカー送りです」と言う。私の工具が、物理的に届かない一点がある。その一点が、年ごとに、店の側へ少しずつ寄ってくる。

子ども乗せの電動が、倒れ傷で運ばれてくる。前後に子どもを乗せるあれは、重い。倒れると派手に傷がつく。チャイルドシートの右の角だけが、深く削れている。地面と擦れた向きだ。右に倒したのだと分かる。停めようとして、ハンドルを右に切ったまま、支えきれずに。私はその角を、紙やすりで整えながら、倒れた向きだけを読む。乗っていた子のことは、読まない。読めるのは傷だけだ。

それでも、たらいの水にチューブを沈めれば、泡が立つ。立った場所に、油性ペンで丸を打つ。電動だろうと、何だろうと、ここは八年前と同じ手だ。指は何も覚え直していない。沈める、泡を見る、丸を打つ。その三つだけは、波の外にある。

バッテリーの盗難の相談が来る。充電器を店に置き忘れて、夕方取りに戻る客がいる。新しい忘れ物が、新しい自転車と一緒にやってくる。その合間に、昔ながらのママチャリが、注油だけで帰っていく。常連のおばあさんが、チェーンに油を一滴落とすのを見て、「これ、まだ乗れるよね」と訊く。「まだ乗れます」と私は答える。それだけの一往復のために、私はまだ、この台の前に立っている。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。第一稿への辛口レビューを経て書き直した第二稿です。