フジワラレン(研究助手)
毎朝、玄関のドアを開ける直前、背中越しに声が飛ぶ。「気をつけてね」。フジワラは振り向かない。もう、十年以上も前の話だ。初めての一人暮らしでこの家を出た時、振り返ると母は玄関に立ち尽くしていた。その姿が今でも目に焼き付いている。しかし、今は違う。ただ、乾いたアスファルトの匂いが肺を満たすまで、一度大きく息を吸い込む。
台所からは、コーヒーメーカーの低い駆動音が聞こえる。食卓の片隅には、読みかけの週刊誌が広げられたままだ。顔を合わせても、たいていは天気の話か、今日のごみの収集日の確認程度。「気をつけてね」は、それらとは違う。特別な情報も、具体的な指示もない。ただ、毎日同じ時間に、同じ音で発せられる。それは、もはや生活の背景音の一部だった。
ある日、ふと、嫌な考えがよぎった。昼食時、食卓で母に問う。「毎日同じことを言うのは、意味がないと思わない?情報じゃないですよね」。母は、箸で煮崩れたカボチャを皿の端に寄せる。わずかに沈黙が流れ、シンクから水の流れる音が聞こえた。いつもと変わらぬ穏やかな声だった。
情報じゃないから、言うのよ。
フジワラの心臓が、一瞬、強く脈打った。その言葉は、彼がこれまで信じていた「価値」の基準を、一瞬にして揺るがす。情報。効率。論理。それらの外側に、この言葉ははっきりと存在していた。それは、朝日に照らされた古い木製の柱のように、確固たる事実としてそこにある。彼は、その日の午後、研究室の窓からぼんやりと空を見ていた。何かが見えるはずなのに、何も見えない。けれど、確かな存在感だけが胸に残る。
玄関のドアを開ける。古い蝶番がかすかに鳴った。昨日と変わらぬ朝の光が、家の前の路地を明るく照らす。振り返らずに一歩を踏み出す。背中で母の言葉が、音もなく溶けていくのを感じた。その足取りは、ほんの少しだけ、昨日とは違っていたかもしれない。