シギラナオ(41歳・建築板金職人19年)
新しく作るより、詰まったものを通す仕事のほうが、いまは多い。家の、雨に当たる部分を縁の下で支える地味な配管。それが雨樋だ。誰も見ていない場所で、静かに水の交通整理をしている。雨が降って初めて、そこに道があったことを、人は思い出すのかもしれない。
電話は、たいてい雨の日にかかってくる。「雨が滝になって落ちる」。みんなそう言う。樋から水が溢れるとき、あふれている場所は詰まっている場所ではない。詰まりは、その少し上流のどこかにある。水は詰まった手前で行き場をなくし、いちばん低い縁を探して、滝になってこぼれ落ちる。だから私は、滝の見える窓ではなく、その上の軒を見上げるところから始める。あふれた場所が、詰まりの位置を指さしているとも言える。
梯子を掛けて樋の中を覗くと、そこには小さな畑がある。落ち葉が腐って土になり、その土に苔が生え、ときには名前も知らない草が、緑の芽を立てている。空から落ちてきた種が、二階の軒先で根を張っているのだ。これは一年でできるものではない。何年ぶんかの汚れが、ゆっくりと畑になっていく。樋の掃除とは、たぶん、その小さな畑を畳む作業なのだろう。
古い家では、樋そのものが垂れ下がっていることがある。本来まっすぐ伸びているべき横樋が、途中で腹を落として、たわんでいる。原因は支持金具の間隔だ。金具が遠すぎると、樋は雨水と落ち葉の重みに耐えきれない。とりわけ雪国では、屋根から落ちる雪が樋を一冬で押し下げる。たわんだ場所に水が溜まり、溜まった場所にまた汚れが寄る。狂った勾配は、自分でさらに自分を狂わせていく。
継ぎ目から漏れている、という現場もある。古い塩ビの樋は、継ぎ手の中に接着とコーキングで水を止めているのだが、そのコーキングにも寿命がある。紫外線に何年も焼かれたゴムは、痩せて、硬くなって、ひびが入る。指で押すと、もう弾力がない。樋を見れば、その家がいつ建ったかが、だいたい分かる。素材には世代があるのだと思う。
落とし口——集水器という部品がある。横樋の水を集めて、縦樋へ落とすための漏斗だ。よくできた集水器の中では、水が静かに渦を巻いて、吸い込まれるように下りていく。設計が悪いと、水はそこで回りきれず、口の縁で跳ねて溢れる。渦の形ひとつで、同じ雨量でも、捌ける家と溢れる家に分かれる。水が回って入っていく、その吸い込みの形を、私はいつも覗き込んでいる。
厄介なのは、屋根に登れない家だ。二階建てでも、屋根が急で、足場がなければ私たちは上がれない。「ちょっと見るだけ」が、安全に見るためには足場がいる。見積もりに足場代を載せると、たいてい電話の向こうが静かになる。樋の掃除より、樋に近づくことのほうが高くつく。私はその理屈を、できるだけ淡々と説明する。高い場所の仕事は、高さの代金で値段が決まるからだ。
雨樋の仕事は、晴れた日には正体を見せない。樋が詰まっていても、空が乾いていれば、何ごともなく見える。雨が降って、初めて道の渋滞が現れる。だから私は、雨の日にこそ呼ばれる職人なのだと思う。誰も褒めない、誰も見ない、けれど詰まれば家中が困る——そういう仕事なのかもしれない。雨の日にだけ分かる仕事なのだ。今日も曇り空を見上げて、どこかの軒先で、いまも畑が育っているのを、私はぼんやり想像している。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。