銅板の、社
百年後に緑になる屋根を、いま葺いている

シギラナオ(41歳・建築板金職人19年)

家の屋根が私の領分だが、ときどき社寺の屋根が回ってくる。銅板の屋根だ。トタンやガルバが三十年、五十年の素材だとすれば、銅は百年の素材だと言われている。葺いたその日から、百年先の人のために働き始める。そういう仕事に立ち会えるのは、職人として幸せなことなのかもしれない。

一文字葺き、という納めがある。短冊のような小さな銅板を一枚ずつ、横一直線に揃えて重ねていく。和瓦のように一枚で覆うのでもなく、檜皮のように束で葺くのでもない。指の幅ほどの重なりを、何百枚も同じ深さで送っていく。重なりが浅ければ雨が裏へ回り、深ければ列が間延びして、軒先まで枚数が足りなくなる。一枚目で決めた重なりの寸法が、棟まで全部を縛る。だから初めの一列に、いちばん長く時間をかける。

銅は柔らかい。平らな板のままでは、社殿の反った曲面に乗らない。当て盤という鉄の台の上に板を置き、木槌で叩いて、少しずつ伸ばして反らせる。金槌では当たりが強すぎて、薄い銅に槌の跡が残る。木の槌で、板の縁から中心へ、扇を広げるように打っていくと、平らだった一枚が、ゆっくり皿のようにふくらんでくる。曲面に沿うとは、板を曲げることではなく、伸ばすことなのだと、この仕事を覚えて初めて分かった。

葺き上がった銅は、十円玉を磨いたような、明るい赤金色をしている。施主はたいてい、その輝きを喜ぶ。私はそのたびに、これは十年で緑になりますと言い添える。初めは黒ずみ、やがて茶になり、十年、二十年と経って、あの社寺特有の青緑——緑青に覆われていく。輝いている時間のほうが、ずっと短い。緑青になって初めて、銅は本当の屋根の顔になるのだと思う。いまの輝きは、長い時間の入口にすぎないのかもしれない。

雪止めと樋の取り合いも、社殿では神経を使う。屋根が大きいぶん、滑り落ちる雪の量も多い。雪止めの位置を間違えれば、ひと冬ぶんの雪が一度に軒からこぼれ、真下に賽銭箱や、参拝の人の列がある。雪をどこで止め、どこで落とし、落とした水をどの樋でどこへ流すか。人の頭の上を、雪と水が通っていく。その道を決めるのが、私の役目だ。

古い屋根の葺き替えでは、まず百年前の銅を剥がす。釘を起こして一枚めくると、表は緑青でも、裏は赤いまま残っている板がある。一方で、雨の集まる谷筋の板は、紙のように薄くなって、指で押すと凹む。同じ屋根の同じ銅でも、雨の通り道だった板だけが先に痩せている。剥がした板を裏返して並べると、この屋根の上を、百年のあいだ雨がどこを走っていたかが、薄さの地図になって出てくる。

社殿の仕事には、宮大工がいる。木の軒先がどこで終わり、そこから先の銅を私がどう被せるか。木と金属の境目は、どちらかが少しでも出しゃばれば、水が逃げ場をなくす。先日も、軒の唐草の納まりで、棟梁と図面を挟んで打ち合わせた。彼は木が動くぶんの隙を残せと言い、私は水が入らない重ねを欲しがる。声を荒げる話ではない。木の都合と金属の都合の、境目を一本どこに引くか。それを淡々と決めていく。

葺き終えて足場を払うと、社殿の屋根が、赤金色に光って立ち上がる。施主も氏子も、その輝きを見上げて喜ぶ。けれど私が見ているのは、その輝きではなく、十年後、二十年後の、緑になったその屋根のほうだ。今日のまぶしさは通過点で、緑になるまでが私の仕事なのだ。私はもう、そのころこの世にいるかどうか分からない。それでも、百年先の誰かのために板を伸ばす——銅板の職人とは、たぶんそういう仕事なのだろう。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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