シオミタクマ(45歳・河川の水門管理員23年)
川と町の間に、私の番をする水門がある。普段は開いている。開いていることが正常で、私の仕事のほとんどは、開いている門が問題なく開いていられるように手入れをすることだ。点検と、巻き上げ機への注油と、夏の草刈り。門が動くのは、年に数回。動かない年もある。何もない年が、いちばん良い年だ。
二〇〇三年、二十二歳のときに、市の委託でこの仕事に就いた。それから二十三年、私はずっと、水位の数字を見て暮らしている。何時に寝るかも、川が決める。雨の予報が出れば、夜中に何度でも目を覚まして、水位計の目盛りを見に行く。川が静かな夜は、私もよく眠る。
水門というのは、増水したときに閉めるものだ。川の水を町に入れないために閉める。ただ、閉めれば安心というわけではない。門を閉めると、今度は町の側に降った雨——内水という——が、川へ出る道を失って、町の中で行き場をなくす。閉めるのが早すぎれば内水があふれ、遅すぎれば川の水が町へ流れ込む。早すぎても遅すぎてもいけない。その一点を、数字で見極める。
就いたばかりの夏、初めての台風が来た。私はその夜、先輩と二人で詰所にいた。机の上には水位計の数値を写した記録簿があって、先輩は一定の時間ごとに、その数字を几帳面に書きつけていた。線がまっすぐで、字が小さくて、定規で引いたみたいだった。私は隣で、暴れる川が早く静まってくれと、それだけを思っていた。
水位がじりじり上がっていく。あと少しで、閉門の目安の数字に届く。私は落ち着かなくて、何度も窓の外を見た。外は真っ暗で、雨の音しか聞こえない。先輩は記録簿から顔を上げずに、低い声で言った。「数字で閉めろ。勘で閉めるな。だが、数字を見に行く足は勘だ」。意味がすぐには分からなかった、と思う。
あとで分かった。閉めるか閉めないかは、目盛りが決める。そこに勘を入れてはいけない。けれど、その目盛りを「いま見に行くべきだ」と判断する足——詰所を出て、雨の中を水位計まで歩く、そのきっかけ——は、数字には書いていない。二十三年やってきて、これはたぶん本当のことだと思う。数字は、見に行かなければ数字ですらない。
その夜は、結局、閉めなかった。水位は目安の手前で止まり、明け方には下がりはじめた。先輩は記録簿を閉じて、「いい夜だったな」と言った。何も起きなかった夜のことを、いい夜だと呼ぶ人だった。台風が来る前には、いつも門の試運転をして、土のうの数を数え直す。何も起きないために、たくさんの準備をする。それが、この仕事なのだと教わった。
川の水は、季節で色を変える。春の濁り、夏の青、秋の澄み。長く見ていると、色で水位のことがなんとなく分かるようになる——気がする。でも、なんとなくは記録簿には書けない。書けるのは、何時何分、水位何メートル、開、それだけだ。私は二十三年、その一行を書き続けてきたのかもしれない。
あの台風の夜に教わった「数字で閉めろ、足は勘だ」という言葉が、私をいまの私にしてくれた。私は川の番人ではなく、たぶん、ただの観察者なのだと思う。閉めるべきときに閉める、ただそれだけのために、何も起きない夜を、二十三年見つめてきた。記録簿は、今日も詰所の机の上に、静かに開いている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。