シラトリレイ(42歳・製氷店三代目)
九月に注文が止むと、製氷機は半分眠る。十二台あるうち、回しているのは三台だけだ。残りの庫の前に立つと、止めた配管の継ぎ目から、霜が解けた水が一滴ずつ落ちている。夏は昼夜の別なく回っていた音が消えて、いま工場で聞こえるのは、その滴る音と、自分の吐く息の白さくらいだ。だが三台は回している。冬にも、氷を要る人がいる。
バーの角氷は、年中グラスの中で溶けている。鮮魚の保冷は、むしろ冬のほうが脂ののった魚を運ぶから増える。世の中が冷えても、氷を欲しがる先は消えない。冬に回す三台は、その客のための三台だ。夏の十二台が戦争なら、冬の三台は、戦争のあいだも畑を耕している誰かに似ている。
冬は、機械を診る季節だ。氷の冷たさのおおもとは、アンモニアの冷凍機にある。漏れれば刺激臭ですぐ分かる——目と鼻に来る、あの尖った臭いだ。だから私は配管を回るとき、まず鼻で嗅ぐ。臭わなければ次は高圧側の圧力計を見る。冬は一・四メガパスカルあたりで落ち着く。先月より針が上がっていたら、凝縮器に汚れが溜まったか、ガスが過剰か、どちらかを疑う。命を預けている機械だ。数字が一つずれただけで、夏が来ない。
製氷缶は、一夏使うと錆が浮く。浮くのはいつも継ぎ目だ。底でも口でもなく、金属を折り曲げて合わせた継ぎ目の線に、茶色い筋が出る。その筋を見落とすと、来夏の氷の角に、うっすら錆色が移る。透き通っているはずの純氷に、一本の錆の線が通る。だから私は缶を一本ずつ引き上げて、継ぎ目だけを指でなぞる。錆を当てた指は、ざらりとする。
父の代からの整備ノートがある。点検のたびに温度と圧力を書きつけてきた帳面だ。父の字は「五」と「六」の見分けがつかない。一・五なのか一・六なのか、針の記憶と照らして読むしかない。困った字だと思いながら、私も同じ欄に、自分の数字を書き足していく。
あの年の夏、祭りが消えた。かき氷屋の伝票が一枚も来なかった。私は前の冬に、いつも通り刃の目を起こしていた。やすりを当て、一つずつ目を立て、光にかざすと刃先が青く光った——使われるはずの夏のために。だがその刃は、夏が来ても氷を割らなかった。研いだ刃は、使わないと錆びる。秋に取り出したとき、青かった刃先には、製氷缶の継ぎ目と同じ茶色い筋が、薄く一本通っていた。来年の夏は来る。その当たり前の上に、氷屋の一年は立っている。一夏ぶん錆びた刃を手にして、私はその前提が物でできていることを、初めて知った。
農業に似ていると言われる。だが種は土の中で勝手に育つのに、刃は研いだそばから鈍りはじめる。使われなければ、研いだ意味は錆になって消える。だから冬の研ぎは、来夏が必ず来るほうへ賭けることだ。私は今日も三台を回しながら、十二台ぶんの刃を研ぐ。研ぎ終えた一本を光にかざす。青い。今年の夏は、これで何百本の角柱を割るだろう。