シシドノドカ(37歳・牛の削蹄師15年)
切れない鎌は、蹄を削らない。むしる。刃先が丸ければ角質は切れずに毟れて、牛は足を引く。だから一日の終わりに研ぐ。何十頭も削った鎌の刃は、夕方には角質を押すばかりで滑っていて、その滑りに私は手より先に、牛の足の振りで気づく。
研ぎは番手を上げていく。荒砥で欠けを取り、中砥、千番、仕上げの六千番。六千番に替えると、それまでザラついていた研ぎの音が急に黙る。刃角は寝かせれば弱く、立てれば角質に食い込む。その一線は迷わない。十五年、指の関節が覚えている。グラインダーで角度を一気に出す日もあるが、熱を持つと刃は焼けて、見た目が鋭くてもすぐ鈍る。だから底の仕上げは手の砥石に戻す。
出張の夜は、宿の駐車場で研ぐ。軽トラのあおりを下ろして台にし、バケツの水で砥石を濡らす。研ぎ汁が黒く立って、濡れた砥面に鉄錆びた匂いが浮く。アスファルトに膝をついて刃を滑らせていると、宿の人が不思議な顔で通る。それでも研がずに朝はない。明日の一頭目は、今夜のこの刃で削る。
研ぎながら、今日の牛を思い返す。三頭目の左後肢。蹄底に鎌を入れたとき、いつもより重く、引っかかった。あれは刃が鈍っていたのか、それとも蹄のほうに、私の見落とした硬さがあったのか。研ぐ手が止まる。刃をいま研いでしまえば、鈍りのほうの答えは消える。だから止まったまま、明日の朝、研ぎたての刃で同じ硬さに当ててみると決める。刃が通れば刃のせい。引っかかればあの蹄のせいだ。
道具箱の隅に、親方から譲り受けた鎌が一本ある。研ぎ減って、私の鎌よりふた回り刃身が小さい。もう使わない。使えるほどの刃幅が残っていない。それでも、毎晩研ぐ台のいちばん手前に置いてある。手に取るためではない。あの小さくなった分だけ、誰かが何万頭の足元に膝をついたという、その目盛りを横目に置いて研ぐためだ。
新品の鎌は、すぐには使えない。工場の刃角は私の角度ではない。最初の数日、刃は他人の手のように余所余所しく、蹄に当てると逃げる。毎晩研ぎ直して角度を寄せていくと、ある晩から急に、刃が私の手の延長になる。何頭目で馴染んだかは、研ぎの感触ではなく、その朝の牛の足が教える。逃げていた刃が、すっと通った一頭がいた。
研ぎ上がりは、爪に立つかで見る。刃を親指の爪に直角に当てて、止まれば良し、滑ればもう一度。良ければ布で拭いて、鞘に入れる。月は出ているかもしれないが、見ていない。見ているのは砥面の泥の引き方と、刃に返ったかえりだけだ。明日の一頭目を、私はもう刃の中に呼んでいる。三頭目の左後肢の答え合わせも、その朝に来る。