ワタナベの妻(匿名希望)
夫が毎月出かける同期会。決まった旅館、決まった顔ぶれ。私も慣れたものだけど、そのたび荷造りとなると、なんだか妙に気合が入ってしまう。もう65歳になる夫のカバンの中身なんて、昔みたいに神経質になることもないのだけれど。
まずは必要最低限のものから。お気に入りのワイシャツを二枚。皺にならないよう、新しい畳み方を見つけるたびに試している。それから、飲み忘れのないようにと一週間分の常備薬を小さなポーチに入れる。これはもう、私の長年の担当だ。ハンカチは必ず、少しだけ良いものを。彼が持つと、きっときちんと見えるだろうと勝手に想像している。
そして、財布にはお小遣い。普段はカードばかりで現金を使わない人だから、いざという時のために少し多めに入れておく。余ったら、きっとお土産の一つでも買ってきてくれるだろう。そういえば、以前は「入れた覚えはないが入っていた」と夫が笑っていたことがあった。何を入れたのか、私自身も忘れてしまったけれど、きっとささやかな驚きだったに違いない。
夫がカバンを開けた時に、ふと目につくような、そんなちょっとしたサプライズ。例えば、彼が最近気にしていた喉の調子のための飴玉だったり、旅先で小腹が空いた時用の煎餅だったり。そう、以前、ゴルフ雑誌のミニチュア版を忍ばせたこともあった。普段から忙しくしている夫が、少しでも息抜きできるようにという、私の
密かな企み
だ。「入れた覚えはないが入っていた」
そう言う夫の顔には、困惑と同時に、ほんの少しの笑顔が浮かんでいる。それが私の喜びでもある。言葉にはしないけれど、通じ合っている。夫婦の年月が、そういう細やかなやり取りを可能にするのかもしれない。
さて、荷物の中には「入れないもの」もある。特に困るのは、彼が読みかけの本だ。カバーをかけていても、背表紙のタイトルでなんとなく察しがつくことがある。それは、私の知らない世界。知らない方がいいと彼が思っている、あるいは私に隠しているわけではないけれど、夫婦といえども踏み込んではいけない領域。私はそっと、その本が元の場所にあることを確認するだけだ。
その問題の本は、彼自身がカバンに入れるべきもので、私が手を触れるべきではない。夫婦の間にだって、それぞれの大事なプライベートな空間がある。それを尊重することが、長続きの秘訣だと、この歳になって
ようやく理解できた
のかもしれない。荷造り作業は、彼の旅への準備であると同時に、私たちの関係を確かめる時間でもある。一つ一つ手に取るものに、夫への思いを込める。そして、入れないことで示す信頼と敬意。彼の旅が無事に終わり、また元気に帰ってくることを、私はいつも願っている。
荷造りを通して、私ができることは本当に小さい。しかし、その小さな積み重ねが、彼の日々を少しでも彩ることを願わずにはいられない。旅立つ背中を見送るたびに、心の中で静かにエールを送るのだ。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。