ワタナベの妻(匿名希望)
書店で偶然手にした終活ノート。最初は軽い気持ちだった。いつか来る「その時」に備え、残された家族が困らないようにという、小さな責任感。ページをめくるたび、項目は多岐にわたっていた。個人情報、財産、契約関係、友人知人リスト。書けば書くほど、日々の暮らしの輪郭がはっきりしていくようで、何だか小気味よかった。
預金口座の一覧を書き出し、保険証券の保管場所を記し、スマートフォンやパソコンのパスワードまで整理した。連絡先リストは、旧姓の友から近所のスーパーのポイントカード会社まで、細かく埋めていった。夫がもしもの時に戸惑わないように、とペンを走らせる。埋まるマス目を見るたびに、小さな達成感があった。人生という名のパズルピースを丁寧に嵌め込むような作業だった。
ところが、ある三つの項目で、私のペンはぴたりと止まった。「葬儀の希望」「遺影に使ってほしい写真」「最後に伝えたいこと」。何ヶ月経っても、そのページだけは真っ白なままだ。他の項目が埋まっていくのと対照的に、空白は異様に目立っていた。なぜだろう。書けない理由が、そこにはあるはずだ。
葬儀の希望。それは、自分自身が存在しない世界を想像することに他ならない。賑やかなのがいいのか、静かなのがいいのか。具体的なイメージを描こうとすると、まるで自分の死を現実として受け入れるような、抵抗感が湧き上がる。残される者への配慮というより、自分自身の終焉を直視することへの戸惑い。家族に負担をかけたくない思いと、まだ生きていたい本能的な願いがせめぎ合う。
次に、遺影の写真。数ある中から「これ」と選ぶことの難しさ。どの顔が、私という人間を表しているのだろう。笑っている顔か、真剣な顔か。他人にどう記憶されたいかという願望と、実際の自分の姿との乖離に、言い知れぬ不安を覚える。飾られる一枚に、人生の全てを集約させる重みに、筆が進まない。誰かの思い出の中の私で十分なのではないか、そんな考えもよぎる。
そして、「最後に伝えたいこと」。これは一番重い空白だった。人生の幕を閉じるにあたり、たった一度の機会に、何を語るべきか。感謝か、謝罪か、あるいは未来への期待か。選び抜かれた言葉が、果たして残された人の心に届くのか。思いを凝縮しようとすればするほど、言葉は力を失い、空虚なものに思えてくる。伝えたいことは山ほどあるのに、最後の言葉として選ぶにはどれも不十分に感じられる。この欄は、生きている限り埋まらない、無限の余白なのかもしれない。
この終活ノートの空白は、単なる未記入ではない。それは、人間の生の複雑さ、死への畏れ、そして他者との関係性の深さを映し出す鏡だ。合理的に整理できるものと、感情や存在の根源に触れることではじめて姿を現すもの。私のノートの空白は、書き損じではなく、私がまだ人生を生きていることの証し。そして、残された人々に、私を自由に想像し、記憶する余地を残す、優しい空白なのだと感じている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。