ソガベツヨシ(57歳・タクシー運転手23年)
行き先を病院の名前で言う客は、はじめての客だ。「病院まで」とだけ言う客は、常連だ。「病院まで」で通じると思っている。つまりその人は、私が覚えていることを、知っている。
朝の迎車の伝票には、住所と時刻と、行き先の欄に略号が刷ってある。同じ家、同じ時刻、同じ三文字。配車の係が打ち込むその三文字は、もう確かめるまでもなく指が覚えている。家の前に着いて待つあいだ、私は玄関灯を見る。消し忘れの朝もあれば、もう点いていない朝もある。出てくる人は後部右側に座る。長い通院の客には、指定席のようなものができる。誰が決めたわけでもない。
病院の車寄せには順番がある。先に着いた車から降ろして出ていく。その流れの中で、段差の少ないところ、自動ドアにいちばん近いところに停められるかは、最後の角をどちら向きに曲がるかで半分決まる。私は遠回りでも、降りる側のドアが歩道に開くように入る。そこまでが受け持ちだ。
身体障害者手帳を出す客には、降りるときに一割を引く。手帳の表紙を開いて等級だけ目に入れ、総額から引いて、すぐ返す。番号を読み上げたりはしない。割引そのものより、それを毎回いちいち確かめられることのほうが人を疲れさせる。手帳をめくる手は、なるべく一回で済ませる。
通院の客には、行きと帰りがある。行きの客は静かだ。帰りの客は、行きよりずっと口数が多くなるか、まったく無くなるかの、どちらかだ。あいだはない。私はミラーを見ないから、それは声の量でわかる。診察の結果は聞かない。聞けば、何か言うか言わないかを選ぶことになる。私はメーターの脇のボタンを押し、領収書を必ず取る客には黙って取る。雨の日は傘をたたんで受け取り、開いて渡す。
降りぎわに「帰りも頼める?」と言う客がいる。軽く言う人もいれば、確かめるように言う人もいる。確かめるように言われた帰りは、長い通院の始まりだ。これは二十三年で何度も見た。次の伝票に、また同じ家、同じ三文字が増える。私はそれを、伝票の三文字としてだけ受け取る。
後部右側に半年座った人がいた。最後の何度かは、帰りの口数がまったく無くなっていた。ある朝から、迎車の予約が入らなくなった。それきりだ。私はその三文字が来なくなった理由を知らないし、知ろうとしない。日報に書くのは走行距離だけだ。誰がどこへ通っていたかは、どこにも残らない。今朝も別の家の前で、私は玄関灯を見ながら待っている。