ソガベツヨシ(57歳・タクシー運転手23年)
終電が出たあとの駅前は、それまでとは別の場所になる。改札から人が吐き出されてくる時間が終わり、ぽつぽつと、乗り遅れた人たちが出てくる時間に変わる。タクシー乗り場の列も、それに合わせて性格を変える。私はロータリーの先頭で、その変わり目をいつも見ている。
終電を逃した客の第一声は、たいてい「すみません」から始まる。「すみません、〇〇まで行けますか」。行けるに決まっている。それが仕事だ。けれど客は、まず詫びる。誰に詫びているのか。たぶん、本当はもっと安く帰れたはずの自分に、だ。深夜割増のステッカーが助手席の窓に貼ってある。私はそれを指でなぞるようにして、「割増になりますが、いいですか」と確かめる。
電話をしながら乗ってくる客がいる。誰かに謝っている。「ごめん、終電なくなっちゃった」「いま、タクシー乗ったから」。後ろで誰かに行き先を報告している声を、私は聞くともなく聞く。その電話が終わるまで、私は車を出さないこともある。話の途中で発進すると、相手に申し訳ない気がするからだ。深夜の街のネオンが、フロントガラスの向こうで滲んで光っていた。
いっぽうで、最初から終電を捨てて飲んでいた客もいる。乗り場に並ぶ足取りからして違う。詫びない。「〇〇まで」とだけ言って、シートに深く沈む。常連だ。終電に間に合うように生きるのをやめた人の余裕というものが、確かにある。私はそういう客を乗せると、少しだけ気が楽になる。詫びられないぶん、こちらも演技をしなくていいからだ。
行き先が遠いほど、客は申し訳なさそうにする。「こんな遠くて、すみません」。けれど運転手にとっては、遠いほど良い仕事だ。深夜割増の遠距離は、その夜の売上をひといきに作ってくれる。客が詫びるそのときに、私の心はわずかに弾んでいる。この非対称を、私はいつも少し後ろめたく思う。申し訳ないのは、本当はこちらのほうなのかもしれない。
「高速、使いますか」と訊く。深夜の高速はがらがらで、料金を足しても時間で得をすることが多い。領収書の宛名を聞かれる客もいる。経費で落とす人だ。「上様で」と言う人もいれば、会社名を一字ずつ丁寧に告げる人もいる。詫びていた声が、宛名を言うときだけ、急にしっかりする。仕事の顔に戻るのだろう。
ロータリーの時計が一時を回るころ、乗り場の列はもう消えている。並んで待つ客はいなくなり、ここからは「流し」の世界だ。客を待つのをやめて、客を探しに走る時間。駅前という装置が役目を終えて、街全体がまばらな乗り場になる。最後の一台になる瞬間が、毎晩どこかにある。前の車が客を乗せて出ていって、ロータリーに自分だけが残る、あの数分。
深夜は、誰もが少しだけ無防備になる時間だ。終電を逃したという小さな失敗を抱えて、人は私の車に乗ってくる。その失敗に、私は値段をつけて運んでいる。考えてみれば、ずいぶん因果な商売だ。けれど、その因果を引き受けるのが、二十三年やってきた私の役目なのだとも思う。
終電が出たあとの街は、タクシーの時間なのだ。誰もが帰り方を失った時間に、私たちだけが帰り方を売っている。詫びる人を乗せ、謝る声を聞き、余裕の常連を運び、遠い家まで割増で送り届ける。その全部を、私は前を向いたまま引き受ける。今夜もロータリーの先頭で、私は次の「すみません」を待っている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。