何も聞かない、という接客
転職一年目の冬、ミラーを見ないと決めるまで

ソガベツヨシ(57歳・タクシー運転手23年)

タクシーを二十三年やっている。後部座席に背を向けたまま、知らない人とふたりきりで過ごす仕事だ。前を向いていなければならないから、客の顔は見ない。ルームミラーというものがあるが、私にとってあれは、見るための鏡ではなく、見ないための鏡だ。

三十四歳まで、私は営業の仕事をしていた。客の目を見て話し、相手の表情を読んで言葉を選ぶのが仕事だった。会社が傾いて、四十前で職を変えた。同僚は驚いていたと思う。人の顔を見て稼いでいた男が、人に背を向けて稼ぐ仕事を選んだのだから。

転職して一年目の、冬の深夜だった。流していると、街角で手が挙がった。深夜割増のランプが灯っている時間で、メーターは普段より少し速く回る。乗ってきたのは三十くらいの女性で、行き先を告げる声は落ち着いていた。私は復唱して、自動ドアのレバーを引いて閉めた。

走り出してしばらくして、後ろで小さな音がした。鼻をすするような、息を整えるような音。泣いていた。深夜の街のネオンが窓を流れていって、その光が時々、後ろの気配を照らした。私は反射的に、ルームミラーに目をやりそうになった。長年、人の顔を読んで生きてきた癖だった。

けれど、見なかった。見てしまえば、私は彼女に「気づいた」ことになる。気づけば、声をかけるか、かけないかを選ばなければならない。どちらを選んでも、それはこの個室への介入だった。私は手を伸ばして、ラジオの音量のつまみを、ほんの一段だけ下げた。たぶん、それが精一杯の何かだったのだと思う。

料金メーターの音だけが、規則正しく鳴っていた。あの音は、感情を持たない。誰が乗っていても、何があっても、同じ間隔で距離を刻んでいく。私はその音に救われていた。私が黙っていても、メーターが仕事をしてくれている。運転手は、しゃべらなくても、そこにいなくてもいい職業なのかもしれない。

目的地に着いた。私は領収書のボタンを押すかどうか訊いて、彼女は要らないと言った。料金を受け取り、自動ドアを開けた。降りるとき、彼女は「ありがとうございました」と言った。普通の声だった。さっきまで泣いていた人の声ではなかった。私も「ありがとうございました」と返した。それだけだった。

その夜の日報に、私はいつも通り走行距離を書いた。何キロ走ったかは記録に残る。けれど、車の中で何があったかは、どこにも残らない。タクシーというのは、個室を運ぶ仕事なのだと、その夜に分かった気がする。運転手は、料金分の距離だけそこにいて、それ以外は同乗していないことになっている人間なのだ。

あれから二十三年、私は数え切れない人を乗せた。そして、数え切れないものを「聞かなかった」。あの冬の夜の沈黙が、私をいまの私にしてくれたのだと思う。ミラーを見ない、という技術だけが、私の二十三年の財産だ。今夜も私は前を向いて、誰かの個室を運んでいる。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。