ワタナベの妻(匿名希望)
夫の書斎のドアは、いつも開け放たれていた。私はその前を通るたび、中を覗いた。机の上には、読みかけの「マルクス経済学概論」と、前夜の残り香が漂うカップラーメンの空き容器。それらが、さながら彼の思考の断片のように、雑然と並べられていた。
机の表面には、乾いたコーヒーの輪染みが二つ、薄く積もった埃の層の上に古い領収書の束が埋もれていた。ひび割れた安物のプラスチック製ライターは、本来の居場所を見失ったように転がり、キャップのない油性ペンはインクが完全に乾ききっている。その横には、読み終えたのか、まだ途中なのか判別のつかない「週刊文春」と、片方のツルが歪んだ銀縁眼鏡が無造作に置かれ、レンズには指紋の跡がくっきりと残っていた。
一本の鉛筆が転がっているだけなら、気にも留めない。二本でも、きっとそうだろう。だが、それが鉛筆なのか、何かのメモなのか、ガラクタなのか、判別がつかなくなった瞬間、視界はざらつき、神経を逆撫でされる。どこからが「散らかり」なのか、その境界線は常に曖昧だ。ただ、ある日突然、唐突に訪れる不快感としてしか、私はそれを認識できない。
ある日の午後、夫が不在なのを見計らって、私は書斎に足を踏み入れた。何かに駆り立てられるように、片付けると心に決める。夫の聖域に、許可なく手を加える行為。それは、整理整装というより、むしろ一方的な介入だった。この机は、私のものではないのだから。
まず、机を覆う紙類を掻き集めた。メモ書きされた走り書きの裏には、昨日の買い物リストが鉛筆書きで混じっている。それらを分類することなく、適当な箱に放り込んだ。本は、背表紙の文字を読みながら、サイズ別に分け、埃を拭いて棚に戻す。鉛筆は、黒鉛の匂いを嗅ぎながら、芯の削り具合や残りの長さで選別し、古びた空き瓶のペン立てに無言で立てていく。一本、また一本。そうやって夫の残した思考の痕跡を均していくたび、私は彼の創作の空白を、私自身の秩序で塗りつぶしているような、奇妙な感覚に襲われた。
私にとっての「きれい」は、彼にとっての「空白」ではない。
結局、十数本の鉛筆が筆立てに収まり、机上には余白が生まれた。けれど、それは「白い余白」などでは決してない。私が無理やり作り上げた、私にとっての都合の良い秩序。彼が帰ってきたとき、この場所を見て、何を思うだろうか。ひょっとしたら、私のこの行為は、彼の創造の途上に、小さな石を投げ込んだのかもしれない。その不安だけが、完璧に整頓された部屋に残った。